見た映画(でも他にもあるんだけど…)。

ジョゼ・パジーリャ『ロボコップ

主人公を演じるジョエル・キナマン(北欧系冷徹イケメン、といった感)と、その妻役のアビー・コーニッシュの、演技の「質」?のようなものが違いすぎて、二人一緒の場面を見ていると、「この夫、何か隠している…陰で連続殺人でもやっとんじゃなかろうか…」と思ってしまったくらいだったんだけど、思えば、この両者は、この映画では、最初から(同じ空間にいても)別の次元に立っていて(簡単に口には出せない仕事上の悩みを抱えた夫と、それを心配しつつ触れることはできない妻、という関係性)、しまいには片方がサイボーグになってしまうくらい徹底的にかけ離れてしまうのだから、それで良し、ということなのかもしれない(とはいえ、脳内で再現されるダンスのシーンには逆影響なんだけれど…まぁそれも「架空」であるからよいのか)。
ゲイリー・オールドマン演じる博士が、義手の患者のリハビリに付き添っている部屋に、オムニコープ社長役マイケル・キートンが入ってくるシーンで、普通(というのがまぁ個人的な考えだというのは前提なのだけれど)、こういう会社の運営や売り上げを第一に考えている社長というキャラクターならば、おかまいなしに立ち入ってくる(大声でも出しつつ)んだろうけど、ここでセラーズ社長は、すぐには入らず、声をかけるタイミングを見計らう行動をとる。義手の男が奏でるギターの曲名なんて口にしつつ。こういう造形は、何かひっかかるものがあって面白い。その、「やさしさ」にとれるような行為、「配慮」のようなもの、は、相手が「お客様」であるからこその行為、というのが、現代の経営者、といったところか。
マーフィーが目覚め、研究室から飛び出すと、そこは工場で、延々と中国人労働者が働いている横や、無人の機械が動くレーンを疾走し、壁を飛び越えると今度はそこは水田、という一連の、ロボコップの身体と「生産」が行われる場所を共に現すシーンは、彼が序盤から常に「product」と呼ばれている(そして「tin man」という侮蔑的呼称)こととあいまって、製作者の、「ある」観点やセンス、を感じさせる。
ジャッキー・アール・ヘイリーは出てくるだけで最高。監督の思い入れのあるキャスティングとのことでグッとくる。
そして、暗闇の中の壮絶な銃撃戦(点滅する光と爆音…IMAXで見たらさらにやばかっただろうな)を見て、『エリート・スクワッド』を速攻でDVD借りた。ぜったいやばいはずだ。


ベン・スティラー『LIFE!』

エンドの、シャーリー・マクレーンの古い写真でもってかれた。ああいうのはずるい。
やっぱり、妄想の中とはいえ、駅のホームから「立体的に」アパートの窓に飛び込んだり、アスファルトを砕きながら走ったり、(今度は現実の中で)ヘリに飛び乗り&そこから飛び降り、スケボーでの疾走(手に石をくくりつける所作!)、ベンのアクションが盛り込まれているのはそれだけでよいと思えるな。
無論誰しもが言う、サントラのすばらしさある。一番ぐっときたのは、もちろん(といっていいのか?)クリステン・ウィグ歌う「スペース・オディティ」!