ジャン・ルノワール自伝』読み終えた。
とても優秀なエピソード収集家としてのルノワール
《女主人に向って私は、まだ見せてもらえなかった部屋が一つあるがと尋ねた。その部屋の扉は固く閉じられたままになっていた。私が不思議に思ったのは間違いではなかった。問いに答えて老女は言った。「これは私の弟の部屋ですの。眠っております。もう眠ってから三十年になりますわ。恋に絶望してこういうことになったのです。弟が愛していた女が、淫売になりにアトランタへ行ってしまいました。弟はその女を奪って行った男を殺そうとしましたが、両親に止められたのです。すると弟はベッドに入って、そしてもう二度と起きてきませんでした。」》(p250)
《この人里離れてポツンと立つ一軒家のバラックの窓からは、まだ荒らされていない地平線が望めるのだった。(…)ネリーのベーコン・エッグスはお客を惹きつけ続けたが、(…)この場所は断然荒れ果てたままで残っているという次第だった。/びっくりして、「いったいどうして、夫婦ともそんなに、人から離れて孤独でいるのがよくなってしまったのだろう」とカメラマンに尋ねた私に対して、「簡単な話ですよ。二人は好き合っていたし、今だってずっとお互いに愛し合っているんですよ。愛し合っている者には、余計な邪魔者は要らないんですよ」が答えだった。》(p268)

ジム・ジャームッシュブロークン・フラワーズ』をDVDで見た。
色と形の重なり合い、連想が与えてくれる快楽と美しさ。ピンク、水色、白、フレッドペリーのジャージの2本のライン 。
女性の身体、若さにみちあふれていること、刻まれたしわ。《女たちの肉体がぼくの夢のなかではいつも大きな場所を占めてきたようだ。》(ロブ=グリエ『快楽の館』)
四人の元恋人(と一人の死者と去ったばかりの女性)はどの人も素晴らしく(それはリアリティがあるとかそういうことではなく、寓話的というか…またはきれいな織物の素晴らしさというか…色彩と形状が過不足なく完成されているというか…)、それぞれに仕えるような人々がいる。娘や夫、荒くれ者、花屋のサン・グリーンなど。《ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。/朝、四フィート一〇インチの背丈で靴下を片方だけはくとロー、ただのロー。スラックス姿ならローラ。学校ではドリー。署名欄の点線上だとドロレス。しかし、私の腕の中ではいつもロリータだった。》(ナボコフ『ロリータ』)
探偵、推理すること。謎は解明されない。ただ何か明かされたような気がするだけで、偽物の解答が与えられる。しかし、それで十分なのだろう。
父親と息子の再会(『ライフ・アクアティック』)。何度も息子のイメージが現れる。ウィンストンでさえも?
で、サミュエル・フラー『映画は戦場だ!』読む。「廿世紀フォックス」の「ザナック」や「マンキーウィッツ」、「チャップリン」、「ジョン・フォード」、「ジャン・ギャバン」、「ハワード・ホークス」などなどや、何より二つの大戦(フラーの場合はそれらに連なって起こる無数の「いつも同じ、古くからある戦争」が加わるが)、なんかが、微妙に描かれ方の違いはあれど、『ジャン・ルノワール自伝』と共通して現れる。特にダリル・F・ザナック、および彼との仕事についての話、二人とも狩猟嫌いなのとかが面白い。ロケや、生音へのこだわり、無名の役者(やプロですらない人々)を起用すること、など。