見た映画まとめ。頑張って追いつくぞ(たぶん無理)。
…と書いて始めましたがなんとかなりました。


レニー・エイブラハムソン『ルーム』

まじ前半の展開が胸糞悪かった…救出されるくだりから、横に座ってる人が泣いてたんだけど、よく泣けるなぁと思った。全然感動しなくないか?とりあえず子どもは大切にしよう、子どもを守ろう、という気持ちにはなった。
納屋で生まれた、父親不在の子どもというともうひとつしか考えられないわけで。彼は長髪で、魔法の存在を信じ、世界を発見する。
モヤっとする感じ、胸糞悪さ、『プリズナーズ』に似てる。宗教くささ、文学ぶってる感じも。
原作小説はどうなってるんだろうか。多分、最初はどういう状況かわからないままただ母子の暮らしを読んでいって次第に…みたいな感じなんじゃないだろうか、予想ですが。映画だとそこは映像で見せざるをえないから、早々に状況把握できる。
助かってから住む家の、あまり洋画では見ないような構造の(まぁ確信犯的に選んでる)、低めの階段(一応地下だけどそんなに下じゃない。あまり閉鎖的な感じを出さないため?)の連なりが良かった。「練習」にもちょうどいい高さ。階段や柵を使ったカットは若干ホラーっぽくもある。


ジョン・ワッツ『COP CAR/コップ・カー』

ラスト、車を置いて一度駆け出していくハリソンが、立ち止まり戻る。出てこないトラヴィスは、車を置いていくことに反対していたので、観客としては、彼が出てこないことはそれが理由だと認識する。だが、それは間違っていて…というシーン。映画を通してこの2人は、お互いの言い分に反発しあいながらも結局は同じ行動を選んでいる(主にハリソンが折れる)。このシーンでも、おそらくハリソンが戻る事で、2人は行動を共にするだろう、と思うことができる。事実そうなるのだけど、その事情は、他の場面とは異なる。ここでハリソンにこの行動を起こさせることで、彼ら2人の"日常"のリアリティが強度を持って迫ってくるように感じた。そして、その後の"違い"はつまり"成長"だ。だからこのラストシークエンスが美しく演出される。アクセルを目一杯踏んで加速し、暗闇の中サイレンが光り、ハリソンの顔を照らす。遠くに見える街の灯り。ここで、映画の中で初めて、作品の中で印象的に使われる無線で、少年は大人とまともに(脅迫でも演技でも嘘でもなく)言葉を交わす。
大人が嘘を言い、子供は真実しか語らない(唯一事実を語ろうとする女性はしかし、「証言」のシーンはカットされ、「目撃」して早々に映画から"退場"する)。
"靴紐"のシーンのしつこさ、嘘のつき方(できてしまう、という意味の)が、妙に印象に残ってる。


ドゥニ・ヴィルヌーヴ『ボーダーライン』

うおおおお…やばい…やばすぎた…。
冒頭の、壁から現れた"あれ"らが、まるで飾られたフランシス・ベーコンのようで、しかもその後、それにそっくりな血まみれのシャワーシーンが来て、もう…勘弁してくれとなった。あとまるで巨大な(口を開け牙を剥き出しにしている)怪物のように山岳地帯を見せる空撮…。
その後も、明らかに普通と違う撮り方(うまく言えないんだけど、土や岩といった物質感をなくして、まるでゴムみたいに見える…うーん適切な表現が出てこない)で空撮が乱れ打たれる。そして、『ゼロ・ダーク・サーティ』のそれを明らかに更新した闇夜の急襲シーン!!
平野に沈む夕陽と青空と夜空がくっきり分かれ(アロノフスキーのノアにもあったやつ)、そこに部隊の影のシルエットだけが見える。そこから夜、3種の映像(光が無い映像!)を目まぐるしく切り替わる。狭い通路の中、銃撃の閃光。そこからまるで"偽物のような"倉庫室内の照明…。
初日から実戦参加、を、初日からdoorをkickしてるという言い回しで言うFBIスタイルかっこいい。
ベニチオ・デル・トロ演じるアレハンドロのやばみを最初に感じたのは、ジャケットを脱ぐシーン。脱いだそれをゆっくり、綺麗に折りたたんでバッグへとしまう。それだけで、あ、こいつやべえ、と思わされてしまう。
ペットボトルの水を飲ませる→紙コップに水を入れるアレハンドロ、からの、でかい水のタンクを持って部屋に入っていく、の一連の流れはしびれたなぁ。そこから排水溝のアップってもまた…。
「ケイトは昔は最高だったのに…」って今でも最高だよ!!!エミリー・ブラント、好きです。「怯えていると少女のようだな…」ってさ…。
しかしベニチオ・デル・トロは徹底的に車中や部屋の中で暗闇に溶け込んでたなぁ。というより彼自身から闇が放たれてるような凄まじさがあった。
ジョン・バーンサル出てるの知らず、しかもいい感じでひどい目にあう役立ったのでok!となった。
国境付近の車道での銃撃のシーン確かに半端ない。でもあの、"標的"のわかりやすさ、首までタトゥーが入ってかすかに体が震えて目はあらぬ方向を見てる、という造形、演出、がどうも引っかかる。本当に本物はそんなに"わかりやすい"のか?(そもそも本物に近くあるべきか?)


トム・マッカーシースポットライト 世紀のスクープ

部長が持ってくる冷めた残り物のピザ(がっつくレゼンデス)。夜のダイナー、ギャラベディアン弁護士がボストンでの"よそ者"の生きにくさを語りながら啜るスープ(クラムチャウダーだろうか)。新聞社の売店で、マットが取り出すホットスナック的な何か。レゼンデスとサーシャが、階段の踊り場で飲むワインと瓶ビールも忘れがたい。つまり、そういうもの、によって支えられてる、と言ってしまいたくなる映画。
マーク・ラファロ=レゼンデスがポケットに手を突っ込み(ベルトホールに指を入れ)背中を丸めている姿が印象深い。思えば冒頭からしっくりこなかったのが、彼が椅子から立ち上がって壁を迂回し、勝手にガラベディアンの部屋に入る動きからぐっとくるようになった。
本編終了後のアレにもやられたけど、エンドロールのスペシャルサンクス的な人々の量にも…となった。


アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ『レヴェナント: 蘇えりし者』

観客と登場人物の、映画的な知性を見くびること。それはセンスがない、とか、下品である、とかにつながるわけで。
砦で姿が見えなくなったフィッツジェラルドを探した後、外に出て大声で隊長が名前を叫ぶシーンで、完全に、全く信用できなくなった。その後の、馬と死体を使った"偽装"で、上着をめくる行為を4度もやらせる時点でさらにその思いは深まった。
木の棒でライフルの真似っこ、石に書く復讐相手の名、…どう考えてもださくないですか???どういうつもりだ。
見てると、しかしハリウッド?の音響技術は、英語以外の他言語のアフレコの精度の高さに興味ないのかな?と思ってしまう。わざとの可能性もあるけど、英語のところはそれがないわけで、やっぱり違うのでは。ちなみに近作だとブラックハットの中国語に同じこと感じた。
ルベツキのカメラすごい、どうやって撮ったんだ(この時代にこの驚きを覚えさせること自体がすごい)、ワンカットとCGの組合せ最強、というの色々あるけど要するにテレンス・マリックじゃん!という感じです(突然動物出現、とか。あの環境だから当たり前だが)。
グラスの"少尉"についての挿話が、ほんとヘイトフルエイトなんだよなー。
メイズ・ランナーのこと思い出してたら、あのおかしな眉毛の彼(ウィル・ポールター)が出てきておっ、となった。しかもめっちゃ主要。
ディカプリオの瞳が、異様なまでにクリアに、黒目が透けて見えるくらいの光が当てられて撮られているシーン(とくに終盤の、砦のロッジで窓際に座ってるシーン)があり、それがもはやグロテスクでさえあった(無論美しいのだけど)。
見終わった後思い出したのはリーアム先生の課外授業ことTHE GRAYだった。あっちの方が制作陣が自分たちのやってることに自覚的(B級の"ばかばかしさ")な分軍配上げざるをえん。
一番震えたのはクマさんとのシーン。もうやめてと声出た。にしてもグラスは、正直真意は不明なんだけど、冒頭の斥候だったはずのとこでのヘラジカ狩りとか、このクマさんへの再度の挑戦とか、なんというか明らかに余計な銃撃をしてしまう、それがなぜなんだろうかという。
レヴェナントを評価する言説その通りと思うけど、誰も名前呼びとコートめくりについて言及してないのかな。あれどう考えてもおかしくないか。だから積極的に褒めるの躊躇してしまう。はんぱではないのは間違いないんだけど。
まず、西部劇であり追跡物であって、そういうジャンルに対する意識がなきゃだめだったんじゃないのかと。あったのか、それは。


佐藤信介『アイアムアヒーロー

原作の素晴らしさ、抑制の利かせ方の絶妙さ(やりすぎないこと、ゾンビ物/パニック物サスペンス物としての"品位"の保ち方)が存在し、その良さが最大限生かされ、また強まってもいる映画化だった。
まさみたん、架純ちゃん(女子高生ルック、前は頻繁にやってたろうけど久々見た感)という超絶可愛い東宝ヒロイン2人と、何ら違和感なく共演し得るという意味で、大泉さんというキャスティングはベストだったのでは。
抑制というのは、つまりいわゆる"人間ドラマ"的なものはわざわざお膳立てしなくてもいい、きちんとその場、あるスペクタクル、ある事件を描けば自然と現れ得るものだというのを分かっている、ということだ。
きっとうまくやれば、120分に収まったであろう、と予感させる…とりあえずその予感だけで充分です…。
衣装もすばらしい。おそらく原作通りだった?英雄のダナーのブーツ、グレゴリーのバックパック(ファッションがサバイバルを助ける)、まさかのヒステリックグラマーのキャップ(またしても世代か…)。井浦のオーバーサイズなカーハートのカバーオール。終盤にまとう藪のM65。
序盤の、英雄の疾走シーン、カメラが寄らず一貫して全身をとらえて、画面の中周囲でしっかり"事を起こし"ている。その画面設計ありきで、車の使い方を生きている。
いわゆる"子連れ狼"シーンで、ああいう音楽を流すというの、完全に悪くない。比呂美の思い出の曲のセレクトも同様。そこにきて英雄の髭はぼさぼさに伸びてると言うのもまた…。
こうなってくるとないものねだりになるんだけど、例えばベランダに出て電話する英雄の後ろで…とか、仕事場から英雄が逃げ去った後、そのベランダからZQNが…とかあったら最高だなと。でも走高跳びのあいつの現れ方はしびれたけど。
当然あの終わり方は、続編を期待させてしまうよな…架純ちゃんがまた女子高生やってくれるかっていう話ですが(いっそのこと原作から離れて数年後とかやっちゃってもいいけど。バトルロワイアル方式)。
原作がどうか知らないのだけど、サンゴの「お気に入りだもんなー」、ZQN化しつつある伊浦の「セックスしよう」「お前も嫌がってたけど…」発言、そして最後の藪の「ママとやってろ!」(motherfucker!)、と胸糞悪い背景をしっかり設定してることが伺えて良い。
東京無線的タクシーが横転する画が見られるというだけでも良いというほかない。


リッチ・ムーア、バイロン・ハワード、ジャレド・ブッシュ『ズートピア

女性の新人刑事が主役の犯罪もの、として必要なものがほぼそろってる。設定や、シーンも。ただカーチェイスはなかった。
語ることがもう無いな…メッセージ!!!よくできてる!!!としか言いようが無い。
街の風景、例えば地面の大きめのタイルが敷き詰められてる感じ、完全にディズニーランドだなと。列車で異なる気候/文化の空間を横断してく感じとかも。


アンソニー・ルッソジョー・ルッソシビル・ウォー/キャプテン・アメリカ

ほぼ生身の肉弾戦3人衆、キャップ、パッキー、殿下が、車道を走りまくるシーン、事前のアウディのCMでもちらっと見れて超期待してたので、本編で見れて泣きそうなほど感動した。これこれ!キャップ単独で見たいのこれ!!って感じで。
劇中何度も繰り返されることとなる、1991年のある事故のシーン、車とバイクの並走、光量の乏しい街灯でしか照らされない闇夜の車道(しかも舗装されていない)、ともかくかっこよくてそれだけでこの映画の間違いなく信用できると感じた。


豊島圭介『ヒーローマニア-生活-』

一番可愛かったの、どう考えても窪田正孝くん!主人の命令に忠実な犬のような…無論主人は東出くん…。
画面内の人物の位置関係や空間設計がわかりにくくせざるをえない、ことを人物のバストショット、顔のクローズアップで隠蔽する、というのが明らかになってしまうというのはなぁ…商店街での格闘や、コンビニなんか、明らかに空間内の人物の位置を一望しないようにしてる…?


ガス・ヴァン・サント『追憶の森』

…なんといって良いか。自分の好きなガス・ヴァン・サントって『ミルク』とかそれこそ近作の『プロミスト・ランド』で、今作は『エレファント』『ラストデイズ』『パラノイドパーク』あたりのよくわかってない系譜の方のガス・ヴァン・サントの作品だった。
ってか今更の気づきですがこの監督、死が間近に迫った(それも、自らの意思に近い、逃れがたさ)時の人間の姿を描くの好きすぎるのでは(強引だけど、リメイクとしてのサイコも同じ位置付けできるのかもしらん)。ただその死が側にあれば何が起こっても不思議じゃないみたいな口振りがよくわかんないなーというか。


ジョエル・コーエンイーサン・コーエン『ヘイル、シーザー!』

節穴なのでエンドクレジットで、え!?ディーキンス???ってなった。海沿いの道、夜のドライブの俯瞰…まぁね…。
俺ちょっと豆食うぜっつってそのあともしゃもしゃやってる姿から完全にアルデン君にやられた感じ。女の子待ちながらロープ芸を淡々とやる(きっと彼にとってこれは、自分が俳優である事とは関係ないんだろうと思わせる…後に自身で語る来歴で証明されるが)のかわいすぎた。
ホビーの地に足のついてる"推理"に思わずエディが"事件"の存在を語ってしまうことで、指示されるがままに行動し続けるホビーが瞳に自らの意思を宿して(と言いたくなる)"追跡"と"説得"という逸脱を為すのは脚本から外れ今までの役柄を脱する、ということなんだろうか。
今まさに作られ(演じられ撮られ編集され)見られる映画こそがfutureであるし、それに対して脚本(家)は過去にしかならない、のかと。
しかしコーエン兄弟、映画愛足りなくない?と思ってしまいますね。例えば異なる複数の画角の扱い、画面内スクリーンの見せ方(はめ込みがさぁ…)など、愛がないなぁと思ってしまう。
しかし歌い踊りアクロバットかますだけでも満足なのに、ブロンドに日焼けした肌で、黒のハイネックとグレーのコートを着て闇夜の海に立つチャニングまじかわいいかつセクシーすぎる。
若い2人の男女がささやかな一芸を披露しあう(hip…の言葉遊びのなんてことなさよ)可愛さが心に残る。その素朴さは、彼らが今の職業に就く前の姿を思わせ、この"業界"の異常さ?を際立たせると共にウイットロックを救う時のホビーのフラットさに通じてるのかなと。
…というつぶやきをまとめて思ったのは、制度の崩壊と新しいスターの誕生、というテーゼだったりする。


セドリック・ニコラス=トロイアン『スノーホワイト/氷の王国』

なんだか不思議な味わいのある映画だった。各方面に配慮しバランスをとろうとした結果、良い奇妙さみたいなものが生まれた、的な…。
(自分にとっての)愛すべき(且つ批判されるべき)妙さについて考えたいんだけど…。とりあえずジェシカの役の奇妙さ、ぶれが気になってる。死んでる/死んでない、愛してる/愛していない、というぶれ、二律背反さ。


ババク・ナジャフィ『エンド・オブ・キングダム

終盤の大統領救出の戦闘シーンのカメラがぬるぬると動くワンカット、やったことないけどFPSみたいだなー(視点の変わり方とか)と思ってたら突入して暗視ゴーグル視点になり、これ完全に今の潮流になったんだなーとも思ったけどそもそもこれもゲームにあったのかな…。
closetからcome out、というフレーズは半ば無理やりな使い方だったにせよ、時代はつくづく"男同士"なんだなーと思ったり、もしかしてもう今はそっちの方が作りやすいのかな?とも思ったり。closetもそうだし、「その身体は何でできてるんだ?」とか、「必ず来る!」とか、最早ヘテロじゃなくてもよいのでは?という気がしてきてしまう(23ジャンプストリートもそうだったけど)。まぁ全てを恋愛に落とし込むのすら拒否してるのかもな。


ティム・ミラーデッドプール

一番笑ったのは「行くべきなんだけど…行きたくない」のとこ。そりゃそうだよね。
コネタの多い、いわゆるアメリカのコメディ(日本では劇場で中々見れない類の。下ネタなど)で、かつ世代を限定したモチーフ(音楽)で…とか言ってるとあれ?これテッドかよ、と今なった。そしてそれが一般公開されることの歓びは当然ある。
アクション例によって凄まじい…って別に言うことでもないけど…。
思っていたよりX-MENだったのできちんと復習した方がよいかと思った(口を縫う、とか)。


アントワーン・フークア『サウスポー』

一番やばいシーンでエミネム流れるんでまじやばいです。エンディングで久しぶりにエムさんの神経症的なフロウが聴けてぐっときた。
オープニングの、丁寧かつ執拗に描かれるバンテージを巻くシーン、葬儀そのものではなくそれが終わった後にやって来る古びたトラックと花輪を片付ける業者を描くというセンスと通ずるものあると感じた。
事件後の、タンクトップを着て1人で屋敷をうろつく時、肩の骨が軽く浮き出ていて、かつ冒頭の試合の時の、血管が浮き出てぱんぱんに膨らんだ身体の時と比べて、肩周り自体が小さくなっているように見える、ジェイクの肉体コントロールっぷりがすごい。
娘役の子が、母親のレイチェル・マクアダムスに寄せてるというか、真似た演技をしていてそれに驚いた。そんなことあるか。
フォレスト・ウィテカーが感情を爆発させるシーンがある、というかそれを起こすある出来事が起こる、のがどうにも唐突というか。それが次の展開へのきっかけになるので余計にそう思う。
カメラのフラッシュでの静止画、とかそういうセンスが受け入れられないんだよな…フークア…。
フランク・オーシャンが流れたんだけどあれ新曲なんだろうか。itunesでサントラ見たけど入ってなかったっぽかった。


ダン・トラクテンバーグ『10 クローバーフィールド・レーン

ブ、ブラッドリー・クーパー???あとウィキペディアおもくそネタバレしてます。
メアリー・エリザベス・ウィンステッドのバトルヒロインっぷりに感情を受けた。特に言わずもがなの終盤の、行動の一切の迷いのなさによって起こる短時間での素早いアクションよ。
脱出物としての、様々なディテールの細かさ。作中で次々現れる設備や小道具たち(映画的かつアメリカ的とでも言えるアイテムたち)が知らず知らずのうちに積み重ねられ、ラストの脱出へ繋がっていく。
狂った現実が、まるで狂人の理屈に呼応して存在したんじゃないか、というようなことを思った。
見終わった瞬間、B級っぷりと終わり方の切れ味の良さがまず心に残ったのだった。
しかし謎だな、と思うのは、冒頭、主人公が荷造りをする場面で、彼女が窓の外を見た時に、地震のような揺れがあったような気がしたことで…もうすでに何かがある起こってて、それに彼女も気づいてるって事なのかなーと、その時は思ったんだけど。
あと印象的なのは酒瓶。それである人物が嘘ついたのがわかる。理由はまぁなんとなく推察できなくもないんだけど、その後の酒瓶の使われ方を見ると、結果的にその嘘が彼女を救った、と言えるような。


黒沢清クリーピー 偽りの隣人』

むっちゃくちゃおもしろい…今年1位っぽいなこれは…。
今年ずっと、スピルバーグブリッジ・オブ・スパイ』を見てる時の尋常ならざる面白さを超える作品が自分にとって無かったんだけど、ここにきて出てきた、といううれしさ。
香川照之の演じてる役が、フィクションでは中々見ないタイプの狂人で、しかし確実に存在するという圧倒的なリアリティが保たれていて、素晴らしすぎた。他者との距離感、顔の動かし方、発話の強弱…。
出演者は皆当然よく知られている人達だが、その顔が、見たことがない顔に変貌する(他作品との比較としても、劇中・物語の中でも変わっていく)。高倉さんも一緒ですね、と吐き棄てる時の川口春奈のワンショット、シチューを持っていく時の攻撃性に満ちた竹内結子…。
東出くんも明らかに寄生獣の時の島田の系譜の演技でまちがいないかと。
高倉たちの"取り調べ"が行われている最中、その後ろ、ガラス窓の向こうの外に、学生たちがたむろっているんだけど、それがどんどん増えていく、その増え方の明らかな不自然さ(テラス席は埋まってて、来る学生はみななぜかその窓の前に次々立ち止まる)が恐ろしい。
とにかく気になるところ、異常なところが多すぎるわけで…それを全てさらっていくことかなり厳しいわけで…。
高倉夫妻宅室内の細い柵のような柱と、空き地に設置された工事用のフェンス。時には人物がそれにもたれたり、隠れたり。最初はそうでもないが物語が進行していくにつれてじわじわと、岸辺の旅、リアルの室内の柱のような異物感を覚えるようになる。
異物感でいうと貯水タンクも。西野が家の位置関係にこだわっている(しかしその理由は明かされない)ことは明らかになるが、触れられないこのタンクもそうなのでは?と薄ら寒さを感じてしまう。
10 クローバーフィールド・レーン』と『クリーピー 偽りの隣人』は、監禁物・脱出物で、女性が不可解に抑圧され(自由意志と強制が奇妙に"混合"している)、拳銃の使用が極めて抑制される(しかしその存在は常に匂わされ不穏さを漂わせる装置となる)という点で共通点がある。
川口春奈に尋常ならざる恐るべき負荷がかけられており、彼女はそれをやり遂げているのに感動した。終盤の高倉から何度も逃れるシーンの、身体の動かし方の、のっぺりとした感じも面白い(過剰なシーンで過剰な演技をしてない)。多分、過去作で言えば麻生久美子の位置だ。
90年代ならば、高倉夫妻は役所広司洞口依子、西野は大杉漣哀川翔ってのも見たいけど)、野上が西島秀俊、早紀が麻生久美子、谷本が菅田俊、かなぁ…。


ジョン・ウェルズ『二ツ星の料理人』

クリーピーと続けてみたけど、両作品共「私たちは家族」というセリフが出てくる(あとある登場人物が「鬼」と称されるのも共通点)。
過去のどうしようもない失敗(それは現在の失敗となる)によって支配される、まともに他者とコミュニケーションとれなくなった男をブラッドリー・クーパーが演じてるの、『世界にひとつのプレイブック』だな。


ジョン・ヒルコートトリプル9 裏切りのコード

バックミラーに映った瞬間のデスおじさんっぷりに笑ってしまうウディ・ハレルソン、そんなおじさんにかわいがり受けまくる甥っ子ケイシー・アフレックがこの映画のヒロインなのだった…死を呼ぶ女…ファム・ファタール…。
確かに暴力的なのだけれど、登場人物たちは実は皆、誰かを殺すことと助けることの間で揺れ動く男(たち)なのではないかと思った。
2人の子どもが登場し、彼らはそれぞれプレゼントを受け取れない、ということや、キウェテルの役が劇中で明確に為すある殺人と彼自身の末路のシンメトリーさとか、ある構造を持ち込もうとしてるのがうかがえた。…いや、プレゼントは、片方が受け取れてもう片方は受け取れない、だった。
印象に残ってるのは、ケイシー演じるクリスが奥さんに「ポルノを見る方がマシ」と言われながら砂漠の戦地で撮られた映像(戦車の車載カメラ?)をPCで見てるシーン。特に説明はなかったけど、彼は元兵士ってことなのか…。
ケイシー・アフレックという役者の特性が成せる技なんだろうけど、クリスという平和な地域から異動してきた実直・真面目な警官が"激戦地"で波乱を巻き起こしつつ真実を知る、みたいなわかりやすさがはっきり見えてこないというか…先述のPCのシーンも普通なら激しい最前線への憧れ?みたいなことを表現されてると認識できてもおかしくないんだけど何考えてるかわからない感になってるし。終盤のある裏切者が判明するくだりも、クリスがそれに気づいていないという事が逆に信じられないくらい何か含みがあるキャラクターになってる。
そして誰かを殺す/殺そうとする人間は必ずその報いを受けるという物語でもある。
犯罪の細かいディテールが次々出てくるのは全面的に好きだ。行員の脅し方、赤い塗料(あんなんあるんだなー)からのカーチェイス、車の交換と処分とか、考え抜かれてるという感が伝わってくる。
あと、一回通話したら携帯を…のとこも好き。


ジョディ・フォスターマネーモンスター

倫理的にも許せないしもう一飛び足りないと思わせるシナリオは置いておいて、めちゃくちゃ手堅くタイトに作られたセンスの良い映画だった。カメラワークも音響も、そして何より編集が素晴らしい。カットバックの巧みさ。あえて言えば海外パートが緩んでるけど2ndだろうし…。
見ながらずっと手堅ぇ〜とつぶやけるような、そんな映画。
リーによって提示される速ければ速いほどよいという価値観、"何を待つんだ!?"という叫び、「透明化」というフレーズ、など、映画本来のストーリーから離れて印象に残るのはものが多かった(がゆえにシナリオ残念だなーと思う)。バグ("glitch")、アルゴリズム、それに対する"人間の指紋"、とか。
男性の主要登場人物3人がそれぞれ、女性に指示され動かされるという構図があって、彼らそれぞれの結末は、その女性の能力に依存してると思えた。つまりここでは、男性は正しい決断が一人では行えない存在になっているというか。
カトリーナ・バルフの次世代ケツアゴ美人っぷりにやられまくった。ファーストカットから美しすぎてやばい。


ローランド・エメリッヒインデペンデンス・デイ: リサージェンス』

…うーむ…やっぱり前作見直しときゃよかったな、と思った。登場人物とかやっぱ忘れてるとこあったし(博士のお父さんとか)。
完全ネタバレですが途中でウィリアム・フィクナーがアレして武闘派アレが爆誕するところがアガった。
前作との違い(だと思う多分。見直してないから自信なし)は、やっぱり時代を反映したと思わしき男性同士の"カップル"の描写がかなり濃厚になってることかなと。後ろに気になってる女性いるのに通信機で男友達と語ってる感じとか。
無免許運転の女の子、レヴィンソン父が加わって、さらにスクールバスになり、大勢の子供達で逃げていく、という描写も面白い。こういうのも以前なら若い男女のカップルとかだったりしてたはず。


ジェームズ・ボビン『アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅』

ミア・ワシコウスカかわいいという感想がまず浮かんだ。劇中で衣装が5着変わるんだけどどれも最高。ラストでばっさりショートカットになってさらにうわっ最高となった。
母親から娘への「いつまでも若くない」「船乗りは女性の仕事ではない」「女性は受け入れるしかない」という言葉。それと作中人物の、過去の後悔はすべて家族について(家族に正直になれなかったこと)だということ。アリスの最後の決断がそれを受けている、彼女は劇中2つの「後悔」を受け止めて相手に(この場合母親に)寄り添うことに決めた、ということで、それに対して今度は母親が娘に寄り添った、というのがラストなのかなと。


庵野秀明樋口真嗣シン・ゴジラ

…ほんっと、実質エヴァ
終盤が意図的に虚構性を高めてエンターテイメント/フィクションだと観客に自覚させてるという説を読んでそれって『大日本人』じゃん…と思った次第。


ジョン・カーニー『シング・ストリート 未来へのうた』

ジョン・カーニー、最高!!!!! ただこの良さは、もうドラッグに近い。
maneaterをかけて、互いに慰め合うように、三兄妹が踊るシーンが最高…妄想ギグシーンが最高…
"UP"のシーンで、白いTシャツでギター上めで弾いて歌うコナーがそれまでと違い色気のある姿になっているのがすごいと思った。ただの高校生じゃなくなってきている、というか。


ジャウマ・コレット=セラ『ロスト・バケーション』

まぁウェルメイドなエンタメという感じで…その意気やよし(えらそう)と言う感じもあり…素晴らしいですが激賞はできないかなーと(ストーリーではなく設定の好みの問題)。
まぁ古くさいセンスかもしれませんが、ショートメールとEMOJI、FaceTime(じゃないけど。ソニーの携帯だから。いい加減にしろソニピ)のああいう使い方のセンスがやっぱうっ!となっちゃうんだよなぁ。


ポール・フェイグゴーストバスターズ

端的に言って最高。
ある2人の女性の友情を、きっちり落とし前をつけるラストで『インターステラー』『アントマン』!(冥界往還)
クリステンがおもくそMITって書いてあるスウェット着てるのはぁ…良い…ってなりました。
クリヘムに関しては"flying beef cake"そして吐息まじりに呟かれる"pure muscle…"をまず挙げていきたい。
"My name is Erin with an “E” for everything you want"のとこがイカれかわいくて最高だった…。
ズーランダー2とゴーストバスターズに出てるクリステン、勝ち組だ。
地下鉄のシーンでの「なんで私が?」「腕長いから…あとこれつけてね、即死しないように」っていうホルツマンのSっ気がにじみ出たシーンが好きですね 。
最初に登場するゴーストが女性であり、それと対峙した登場人物たちが、その後になっても彼女のことを"美しい"と称して決して不気味がらない(当たり前か、"プロ"なのだから)、それと対応するものとして、地下鉄のゴーストに「この"ハンサム"(だったかcoolだったか…)な彼を連れて帰ろう」と言及するシーンがあって、(片方だけでなくて)「どちらもある」と言うのがこのリメイクならではかなと。
思ったのだけど"説明員"映画ってあるなと。ナイトミュージアムやナショナルトレジャー等の"博物館もの"は言わずもがな、ホワイトハウス・ダウンも確かあったような。ある展示物の説明(によって対象を描写する)という「省略」方法を選択してる部類の映画。
"地下(空間)"映画でもある。地下室だけでなく、地下鉄や下水道など。
もしかして今回はその色が特に強かったのでは?都市、が新しく構築される下に埋められ忘却された過去("ご先祖様"たる清教徒たち、殺戮された先住民)が回帰する……と考えて、過去から切り離されようがないゴースト=死者という存在がモチーフの映画なんだから当たり前かと気づいた。でも今回は外部から召喚されたものではなく元々あったものを呼び起こしたという属性が強調されてる。


ブライアン・シンガーX-MEN: アポカリプス』

アポカリプス「チャールズは俺のものだ!渡さんぞっ!!チャールズ!チャールズー!!」
エリック「何言ってんだ!"俺の"チャールズだよ!」
チャールズ「助けて…ジーン…」
…っていう映画です。
X-MEN: アポカリプス』と『ゴーストバスターズ』は、"The end of the world"を友情パワーで阻止するという共通点があるのでほぼ同じ映画ではないか。
たしてもスターウォーズネタ。それで素晴らしい"1作目"に敬意を表しつつ"3作目"を自虐的に語る、だけでなく3が1のオマージュだということも示してる(エリックの喪失、再びのアウシュビッツ、力の制御と解放というモチーフ)。でもハンクの「(エリックが大変なことになってるのは)いつもだろ」という発言で自ら皮肉ってもいるけど。
エリックとレイヴン、レイヴンとチャールズ、ハンクとレイヴン、そして何よりエリックとチャールズ、はすれ違ってしまったけど、(旧三部作とは"別の")ジーンとスコット(ともしかしたらローガン)はすれ違わずに済むかもしれないという希望を抱けるのが今作だった。
CGオープニングのセンスが相変わらずのそれでほっこりした。20世紀後半の人類史を総ざらえするオープニング。


ジョン・ファヴロージャングル・ブック

見て考えたこと。映画とは、空間を切り取り区分けしその間を行き来することだ、ということ。ジョン・ファヴローはそれにおそらく自覚的だろう(というか映画監督は皆そうか)。『ザスーラ』のエレベーター、『アイアンマン』のスターク邸、『シェフ』のフードトラック、等。というか、"移動する空間"か?ならば今作はどうなんだ。
繰り返し"mankind"という単語が使われ、しかもそれには侮蔑の意味が込められたりもし、何度も聴く、その引っかかりのある言葉が蓄積されていく、今までにない感覚がある。
空間の描き方についてしつこく考えてる。というか、ジャングルを映画で描出すること自体が興味深い。どうやって切り取る/区切る(印象づける)のか。


デイヴ・グリーン『ミュータント・ニンジャ・タートルズ: 影<シャドウズ>』

"lil bro"からのマイキーに手を出すな!で涙…兄弟ものに弱いというのに初めて気づいた…。
今回シュレッダーだけでなく、ビーバップにロックステディ、クランゲまで出てくるのでアニメタートルズ世代としてはにんまりとした。
ところで今作はニューヨーク物/異世界(からの侵略)物として『ゴーストバスターズ』とかなり近いのだった。
"monster"呼ばわりする人間たち、そして「あれは恐怖というより憎しみ(hate)だ」というマイキーの言葉、非常に現代的だしX-MENシリーズを思った。
久々にミーガン・フォックス見た感があったんだけど、顔、あんなんだったけ?彫像みたいになってた。しかしあの格好をした時の彼女の"正しさ"ったらないな(未だに"それ"なのか/"それ"をやらせるのかという問題はあるが)。


ジェームズ・ヴァンダービルト『ニュースの真相』

はーっ、身につまされる…。
劇中で多用されるし繰り返しその行為の本質を突き詰められる"ask"、「尋ねる」「質問する」以外にも「求める」「請う」という意味もあるんだよなぁ…父親に助けを求める行為もaskだったのでは…と考えると「質問しなきゃよかった」という後悔にも別の意味が加わる…。
プロデューサーとしてブレット・ラトナーの名前とスペシャルサンクスでフィンチャーが出てきてほぅ…となった。


ジョン・M・チュウグランド・イリュージョン 見破られたトリック

とりあえず『ニュースの真相』に続いてこれも音楽がブライアン・タイラーで働きすぎかよとなった。
ラドクリフくんのアレがあの人で、(2人合わせて)どクズUK感かはんぱなかった。「どの女だか…」って…。
ジーキャプラン…かわいい…好き…ってなりましたね。アン・ハサウェイエミリー・ブラントの系譜にいる感じで好きですね…。
前作の時も思ったけどやはり、映画とマジック(それも現代の)はかなり奇妙な関係にある。実際行えるトリックと映像上の加工の混在。俳優/登場人物の技術(カード飛ばしは?)。


デヴィッド・エアースーサイド・スクワッド

IMAXのオープニングがスースク仕様になってたのテンションあがったなぁ。
ラストバトルのシーン、何か既視感あるなぁ…と思ってたけどジョシュ・トランクファンタスティック・フォーの感じがあった(ほめてないな、これ)。
冒頭、まじで予告みたいな作りしてた。音楽ぶっつなぎみたいな。最近こんなの見たことない。
カタナちゃんとハーレイが、尾頭さんとカヨコみたいになるシーンあるんでシン・ゴジラ好きな組も見に行ったらいいのでは。
所謂近年頻発してる(役割としての)"姫"多すぎ映画。濡れそぼってしょぼんとバーに入ってくるシーンに顕著なカーネル・リック・フラッグ=ジョエル・キナマンの守られ姫っぷり。
今作とBvSを見て思うのはエズラ・ミラー主演『ザ・フラッシュ』が面白くないと裏切られた気分になるなぁということ(ジャスティスリーグは知らん)。
ジョーカーの出番が削られてるというのはまじなのかな。だとしたらその部分見たいな。
敵自体や攻撃方法や破壊の様子のビジュアルが凶々しくてかっこいい(という点もジョシュ・トランクファンタスティック・フォーに似てんじゃん…)。
デッドショット腕試しの時のkanyeのblack skinhead、着替え(!?)の時のeminemのwithout me、どっちも正しく"ガンガン"流れるので最高だな。
アマンダ・ウォーラーのある行為を見てデッドショットが、おいおいgangstaかよ(悪党はどっちだよ…)と言うシーンがあるんだけど、国家=ギャングだというのを端的に示してて印象的だった。
予告でもない使われたウォーラーと政府高官との会食シーンと対になるようにしてラストにも同じ店でのある男との会食シーンが付け加えられる。冒頭で提示された極秘書類がここではその男へと手渡される(中盤の秘密の暴露シーンでもこの機密資料が引き金になる)。


スティーヴン・スピルバーグBFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント

主人公ソフィー=ルビー・バーンヒルは少女のようにも少年のようにも見え、子供のようにも大人のようにも振る舞う。
BFGから手渡された着替えからえらんだ赤いジャケットを、その来歴を知ったソフィーが何も言わずに(本当に、説明をせずに)裏返して着るという行為が凄まじいし、その後ある部屋の中でそれを脱ぎ元に戻す(この時も何も語らない)のも凄い。


クリント・イーストウッドハドソン川の奇跡

す、凄まじい傑作だ…ケネディ/マーシャルだった…。
冒頭の、1人ベッドに腰掛けるトム・ハンクスへの目元だけに当たる光、という画の、不穏な凶々しさなんなんだ。まるで"殺人者"のようだ。
繰り返しサリーの目に現前する、NYの街をあまりにも低く飛びすぎる大型旅客機とそのありえたかもしれない末路は明らかに"あの"事件/事故を再現してる、感じさせるに留まらず作中人物にはっきりと語らせもする。つまりこの1/15こそ、9/11でありえたかもしれない(しかしありえなかった、《過去に戻りた》くても戻れないのだ)姿ということだ。
サリーが俯いて座り込むバスルームに漂い、ランニングする街に烟る蒸気、白くなる吐息、ハドソン川に立つ水飛沫。
エンドに流れる曲、まじイーストウッド節だよ。
聴聞で徹底的に苦しめられるところでまだ40分しか経ってない!まだ半分以上ある!!という(良い意味で)絶望的な気持ちになったよ。
イーストウッドは近作、クリス・カイル、フランキー・ヴァリフォー・シーズンズ)、ジョン・エドガー・フーヴァー、そして今作ではサリー・サレンバーガーと、"American hero"とその両義性について描こうとしてるのでは?そしてそれはおそらく硫黄島二部作からだ。
サリーと妻の電話シーン。2人は映画の最後まで直接会うことがないという奇妙さ。それぞれの事故の捉え方のズレが面白い。しかも最後の電話で奥さんはどうやら荷造りをしてるんだけど、それについて何の説明も無い。事実かは置いといて観客にはその理由がわかってしまうんだけど。
(これも事実かどうかは置いといて、だけど)しびれるのは、出発前のコクピットでの会話に「ほら吹き」という言葉を出すという恐ろしさだ。
サリーの奥さん役のローラ・リニータートルズ影に続くのがこの役って…)、キャビンアテンダントの3人、安全委員会の調査員役のアンナ・ガン、といった女性のキャラクターの良さをかみしめてる。それに対して配置される、サリーへ肉体的に好意を示す2人の若い女性のことも。
しかし回想シーンの"素早さ"は半端ないな。パイロットとしての教えを授かる青年時代、戦闘機乗りとして為した素晴らしい着陸、という2つのシーンを前触れなく、ナレーション無く、テロップも無く挿入してしまう、観客への信頼の高さ…。
そして『ブリッジ・オブ・スパイ』の異様にクオリティ高い偵察機墜落シーンと『ハドソン川の奇跡』回想での戦闘機のシーンは通じてる。


ポール・グリーングラスジェイソン・ボーン

眉間にあんまり寄らないしわを寄せてるアリシアかわいいよーlone wolfで命令従わない久々のキレてるヴァンサンかっこいいな〜トミー・リー・ジョーンズ目の下の皺怖っ…あーグレーのケーブルニットで襟から白Tシャツ覗かせてるアリシアかわいいなー…以上です。
実質『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』です。
ともかくアリシアの可愛さやばく、なぜこんなにやたらと目につくのかと考えると、そもそもこのストーリーだとアリシア演じるヘザーが主役でボーンいなくてもギリ成立してるからじゃないかと思い至った。
Extreme Ways流れてぶち上がり、訳詞になっちセンスを感じた。
ギリシャのデモ、画として面白いだけで設定や物語と関係無い…ってちょっと思ったけど、ギリシャからベガス(経済崩壊からIT社長)、という線を引きたかったのかなーと。
旧三部作をかけて最終的にたどり着く/帰還する始まりの地としてのアメリカに比べ今作の軽さ・あっけなさという…。
マイケル・マン『ブラックハット』ぽさあるな。テクノロジー周りの描写とか、珍作っぷりとか。


ジャスティン・リンスター・トレック BEYOND』

あれ、fight the powerじゃん(これも良いけど)と思ってると、sabotageが最高の使われ方してる。「ビートと叫びよ」「いい選曲だ(ニヤリ)」
確実に2作目より、もしかしたら1作目より良いかもしれない、と思えてきた。
最後のあのナレーションを皆の声で、という演出の熱さにぐっときた。
自分はスタトレファンでもなんでもないけど、ある種の直感として言うなら、今作はリブート後としては最もかつてのシリーズのテイストを引き継いでたんじゃないかなーと思ってる。スタトレとしてオーソドックス、というか。
これでもか、というくらい仲間仲間仲間、のモチーフ乱発してたの、やっぱワイスピイズムもあったのかなー。
しかし見ていてかなりさくさくと編集されてるように感じたんだけどそれでも120分超えてるという…。


三浦大輔『何者』

とりあえず歌うまの菅田将暉くんの演ってるエレカシみたいな曲が最高すぎて入手したいと思いサントラ調べたけど入ってなくて絶望してる。
全然外出ないなーと思ってたらそれがわざとだという監督の言葉を読んでへーとなった。


ジョエル・エドガートンザ・ギフト

凄まじい傑作。ジョエル・エドガートン、すげぇ人だ。アダム・ウィンガード『ザ・ゲスト』とジェイソン・ライトマンヤング≒アダルト』が補助線として思い浮かんだ。アメリカの"定型"から逸脱する"異物"。
冒頭の、無人の家屋内をゆっくりととらえるカメラワーク、画面構成だけで既にただならぬものを感じずにはいられない。何かが起こる予感をしっかりと刻み込むような画。
観客に隠すものと見せるものの峻別(例えば、何を言ったのか/言われたのか、わからなくする箇所・要素の絶妙さ)、"嘘"の使い方、演出と脚本が素晴らしいとしか言いようがない(脚本もジョエル・エドガートン)。


エドワード・ズウィックジャック・リーチャー NEVER GO BACK

見終わって敬意を表してマックを食べた…(なんか食べるっつーとハンバーガー食ってたので)。
ラスト、"娘"と向かい合うトム・クルーズの顔のアップが、何というか、今まで見たことがないようなものだった。おそらく、年齢を強調するような撮り方やメイクが選ばれている、はず。…でもそれだけでなく、リアリティというか厚みというか…。
最後、夕陽のオレンジ色の光の中で、笑いながら、Tシャツ姿でロードサイドをふらつき歩く姿も、何かが違う、でもそれをはっきりと言葉にできない、という感じがした。
っていうのつまり、言いたくても言えなかったこと、言ってしまえば、イーストウッドじゃね?ということだ…
ファーストカットからして、『アウトロー』に在ったショット(とは言いたくないけど…)のヤバさが無いのは自明で、あーと思いつつ見てくと、ニューオリンズの空港での並走および市街での追跡に良さが出てくる(後者のセットっぷり!!)。
リーチャーとコビー・スマルダーズ演じるターナーラブロマンスが周到に回避され、かと思えばモーテルでの一晩明けた翌朝、リーチャーが彼女にぴったりのサイズの服を買って着たりし、何かを匂わせもしてる…。
あと、逃亡/追跡(が二重化する)の過程で擬似家族が形成される、というのも奇妙で面白かった(何か他の作品であったような気もするのだけど)。
実際も使われている言葉なんだろうけど、放たれる"espionnage"という単語の響きに痺れた。
トム・クルーズは、(近作では)変則的にしか、"父"になることができないのかなぁ…(何より『宇宙戦争』、それから『オブリビオン』『マイノリティ・リポート』、『マグノリア』?)。


デヴィッド・イェーツファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅

ゴールドスタイン姉妹、ニュートとコワルスキー、グレイブスとクリーデンス、の同性カップルがエロいなと思って見てた(特にエズラくんが路地の暗がりで責め立てられるシーン…やべぇ…)。
ハリー・ポッターシリーズにもあった、血統、純血主義/多様性というモチーフ。ニュートが、ある魔法動物について、最後の"つがい"で自分が保護しなければ絶滅していたと語る(おそらくそのおかげで誕生したであろう動物の子供達も現れる)。新セーラム救世軍のメアリー・ルー・ベアボーンの子供達は皆養子で、彼女は滅ぼそうとした魔法使いの血統によってしっぺ返しを食らう(それは、ある子供の母親についての彼女の異常な敵意が生み出したものといえる)。
描写足らずに感じることが多々あった。例えばグレイブスがクリーデンスに執着した理由、事後的にはわかるのだけど、ティナを排除したことも含めて、もうちょっとわかりやすくてもよいのかなーと。ただ、それを映像で見せたいんだということだとしても、他に、カットがとんでるような箇所が2つあったりしたので、編集がまずいんじゃないの…とも思ってしまう。
というか、ティナとクリーデンスの関係をああいう形でニュートに(観客に)見せるの、他に良い方法無かったんかという気がしないでもない。なぜあそこで"現れた"のか、の理由は、まぁ推測するに"母親"のイメージ、ということなんだろうけど。ならせめて、ティナが自らをクリーデンスに重ね合せる描写なりなんなりがあったらよかったなと(ゴールドスタイン姉妹の両親にもうちょっと深みを持たせるとか)。
激しい動きを伴う瞬間移動(これはハリポタにもあったっけ…)の画はそれだけで面白いし、ゴールドスタイン姉妹の"料理"シーンも、ニュートのトランクの"中"の描き方も見ていて楽しかった。
一球入魂と言うのとは違う、乱れ撃ちする魔法のバトルシーンもかっこよかった(連発しまくるコリン・ファレルのクールさ!)。
あと、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』のアレみたいなのが出てくるのでそれも好きです。
ただ、これ作ってる人達は1920年代のアメリカにさほど興味ないのかなーと思ったりもする。その時代特有の人間とか車とか風景の描き方なくない?と思う。
ニュートのトランクの中、おそらくあえて、異種の空間同士が歪んだまま接続されててそれもよかった。


片渕須直この世界の片隅に

片渕監督の演出クオリティの凄まじい高さと、こうの史代という天才が漫画という形式に持ち込んだ新しさに改めて気付かされた。
冒頭の「悲しくてやりきれない」聴いた瞬間から身体が震え始めたし、劇中の曲もどれも良く、コトリンゴさんすげぇとなった。
冒頭のすずさんの喋りが、ナレーションなのか登場人物として喋っているのかわからないような音の処理をされていて???となったけど、見ていくうちにその曖昧さがまさに「こうの史代作品の喋り」だなと思えてくる(無論進行するにつれはっきりするのもあるけど…)。
凡庸な感想としては焼夷弾や機銃掃射の描写怖すぎる(家屋の破片が飛び散って穴を開けまくる様…)・のんさんの声最高・やってくることは人倫に反しすぎてるけど水原さんとすずのシーンエロすぎる、などがあります。人倫に反してる、のは、すず(だけ)ではないです、無論。
要素が多すぎるので言っても言っても言い足りないので何も言わなくてもいいか、となる。
やっぱり広島じゃなくて呉の話だったんだなと思った(津原さんのツイッター読んで)。
今作を見て、あんまりひどくなかったんだ、と思う人がいるのかもしれず、そういう人達に対し、どれだけひどかったかを語るのは必要なのかもなと。
例えば自分の場合、息子の姿がわからなかった、というエピソードは、それ単体でというより、以前に見知っていた被害者の姿の情報と重ね合わせたことでさらに恐怖を感じた。その"他の"、"より詳細な"情報、を映画に含むべきなのか?という問い。


バリー・ソネンフェルド『メン・イン・キャット』

離婚した元妻との子供との仕事、ワンマンかつ同族経営へのこだわり、NYに建つ象徴としての(自分の名を残す為の)高層タワー、などの、登場するイメージから、ある人物を想起せずにはいられないわけで…。
猫になることで不可能になった、言葉による(人間としての)双方向的なコミュニケーション(が、実はそれは猫になる前から同じだったのだが)を、可能にするのは、ある両者が同じアクションをとること(ダンス、スカイダイビング)、というのがきちんと描かれてる。
しかしこの物語は、トランプに対してどういう姿勢をとってるのか。相手の望みに寄り添って奉仕せよ、とでも?


ギャレス・エドワーズローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー

デス・スターを、「死の兵器」という劇中での称号から、父から娘へと(文字通り)"注がれる"、苛烈なる「愛の兵器」として読み変えられる。その愛をスイッチにして娘は動き出す。
冒頭の荒野のシーン、なぜか知らんが横一列に並んで歩いてくる姿含め、無茶苦茶かっこよく、ギャレスの見せ方の抑制っぷりのセンスが出まくってた。ただ、ゴジラにせよSWにせよ、絶対にどこかで全貌を見せなければならないからなー。
デス・スターを愛の兵器とするならば、それは父と娘だけのものか?と考えた時、ゲイレンを連れ出し、結末をあの表情でむかえることになるクレニックが浮かび上がってくる…ジンと向かい合った時の言葉も、彼自身の真意を類推したくなるものだった。
チアルートの戦い方が超絶最高で、彼のおかげでSWで見たことのないカット(トルーパーの足元とか)か生まれてる。無双っぷりは笑うしかない。
EP7のスターキラーの消滅と違い、デス・スターは、レーザーが星に挿入され、地面が隆起し、遠目からは崩壊が緩やかに進む(あくまで一つの地域に対して攻撃だからだろうか)。その様子を恍惚とした顔で見つめる人々の姿が描かれる…。
チアルートさんの武器が与えてくれる「え!?そうなるの!??しかも当たっちゃうの!???」という驚きのような感情得るために映画を見ていると言っても過言ではない(近年だとパシリムの飛ぶやつとか)。


黒沢清ダゲレオタイプの女』

監督がハリウッド行って、アダム・ウィンガード『ザ・ゲスト』みたいな映画撮ってほしいな(見て思ったこと)。
この作品を軸に、黒沢清作品を「汚染」「都市開発」というテーマで読み解けるなと思った。
駅に到着する列車からのオープニング、続く広大な土地の工事(全体を画に収めてる)の脇を主人公に通らせるというカット、固有の場所であるという証を剥奪されたような路地、という(ロケーション)場面設定に一分の隙もないなと思った。