ビル・コンドン『美女と野獣』


フランスの話…つってもエマ・ワトソンダン・スティーヴンスルーク・エヴァンスユアン・マクレガーイアン・マッケランエマ・トンプソンで、どのツラ下げて…っていうキャスティングだった。それにしても、エマ・ワトソンの「面構え」、"面(ツラ)力"には凄まじいものがあると感じた(それが決してスター性をイコールではないと感じてしまうのが微妙なとことであるのだけれど)。

"置き去り"の主題系について。本作では、誰かが別の誰かをある場所に置き去りにする、という構造が繰り返される。"Leave me alone"という劇中で多用されるフレーズもまたこのモチーフに連なる。それを辿ってみる。

まず、ベルが、父親モーリスを助ける形で、城に置き去りにされる。

そして、ガストンが、モーリスを森に置き去りにする。

ベルは、自分がいなくなった後一人で暮らすであろう父を、家に置き去りにしていると感じている。

そして、物語終盤、父を救うためベルは、野獣を置き去りにして城を立ち去る。

なぜ、こうも繰り返されるのか(ちなみに元のアニメ版では、ガストンとモーリスのくだりはなかったように記憶しているので、つまり、今回実写化するにあたり、「置き去りを追加」したということになる)。それは、今回の実写版で、物語の真の始まりは、王子が呪いをかけられることではなく、別のある出来事としているからだ、と考えれば、読み解くことができる。

それが、モーリス(とその当時まだ乳幼児であったベル)と、自身の妻でありベルの母との、パリでの別れだ。当時流行していた疫病(登場するマスクの存在からして、おそらくペスト)にかかった彼女は、幼い娘を救うため、娘から離れるため、自分を置いていくよう、夫を促す。彼は、その願いを、苦渋の決断をして受け容れる。この、父が隠蔽していた過去を、ベルは、野獣の持つ魔法の道具(それは彼が魔女から渡されたもの)によって知る事になる。

この、今作で元々のストーリーに追加された、ある女性が"置き去り"にされるという(解決されない)挿話がまずあり、それから、呪いがある、という時系列として考えてみる。

そしてこうすることで、2つの疑問を解き明かすことができる。1つは、なぜ、王子はあまりにも理不尽な呪いをかけられたのか(本当に王子を試すためなのか?)。もう1つは、この呪いをかけた「魔女」とは何者なのか、ということ。

呪いは、王子に人間らしさや優しさという「変化」をもたらした、解釈するのがわかりやすい。そう言った意味で今作は、当然のごとく「変身」映画でもあるんだけど、その白眉たるラストの「戻る」シーンの、なんというか節度のないあからさまさが…まるで少年漫画の1シーンのような演出で、野獣から王子へ変身する。他の召使たちのそれも同様で、身体の繊細な変化を描くことはなく、カット編集でのシンプルな見せ方をしている(それが決して、重きを置いていないという証拠である、とまでは言わないが)。

だが、振り返ると、そうした「変化」「変身」だけではなくて、ある人物のある具体的な行動、動き/アクションを引き起こした、とも考えることができる。
それが、ベルによる、置き去りにされた者たちの元への帰還だ。彼女は、父を救いに村に戻り、それからまた、野獣の元へ戻るため城へ向かう(彼女は本作を通して、移動を繰り返していると言える。一方野獣は一ところにとどまって助けを待っている)。呪いがなければ、この往還は起こり得なかった。

すこし脱線するが、今作で強調されているのは、こうしたベルの能動性と言える。
気になったのは村での最初の歌のシーン、村の中をうろつくベルの周りで村人たちが歌い継いでいくのだけど、その時のベルの身体が弛みきってること。腕をブラーンとさせて、歩き方にもダラっとしてる。もう1つは「Be Our Guest」のシーン。いくつかあるワンショットのベルの顔に浮かぶ表情のある種の弱々しさ。この2つに共通するのは、彼女はこれらの場面でほぼ他者から"歌われる"対象にあるということ(前者ではかろうじて合間に少し彼女自身の内面を語る歌が挿入されているが)。もちろんこれらの反面としての、ベルの力強いソロ(歌であり、アクション)がある(というか、もしかしたら、特にbe our guestの時は、まだ目の前に何もない状態で――グリーンバックで――演技してるからこんなに気が抜けてるのかな…とも一瞬思ったけど、ハリーポッターをあれだけやってきたエマ・ワトソンがそれはありえないだろうと)。

1つ目の疑問を、呪いは、ベルが置き去りにしたもの(父親と野獣)の元へ戻ることができるかどうか試すためだ、と、答えてみよう(ちなみにモーリスは、置き去りにした妻も娘も、自分の手で取り戻すことができない、不能の存在だ。個人的にはあまり性別の概念を当てはめたくはないが――現代では当たり前なので――あえて言及すれば、今作は、助ける者:助けられる者=プリンセス:王子=女性:男性、の役割が反転している)。

そうすると、2つ目にも回答することができる。森でモーリスは誰に助けられたのか(このエピソードも、ベルの帰還というアクションを引き起こしたという点で、呪いの機構の一部だとすることも可能だろう)、ベルが過去を知る事が出来たのはなぜか。つまり、正体不明の魔女はベルの母親(物語の最初に"置き去り"にされた存在)である、ということだ。

魔女=母親の目的は、王子にではなく、ベル=娘、に試練を与えること、起こってしまった(もう取り消すことのできない)"置き去り"を、父親や王子といった(ここにガストンを加えてもよいが)男性たちという「媒介」を通して「解決」させること、だった。この、他者を巻き込み不可能性へ挑ませる執念もまた、呪いと呼ぶにふさわしい、と言う点で、呪われ、それを解くことで祝福されるのは、王子ではなく(だけでなく)、ベルだった。
つまり、今作は、実写化に伴って付け加えられた要素によって(『シンデレラ』や『白雪姫』と同様に)極めて"変則的"な"母娘的"物語としての姿を浮かびあがらせている、と言える。