テレンス・マリック『ボヤージュ・オブ・タイム』


上映時間残り30分くらいのところから、なかなかびっくりするような展開になる。そのびっくりというのは、単純に映画ではあまり見ないタイプの映像だから、という意味でもあるし、今あえてこのクオリティで…?と価値判断を狂わせるようなもの、という意味でもあるし、とにかくまぁおもしろい。とりあえず映画の最後まで、ミンティアのおかげでなんとかなった。

本作には、幾つか、視認不可能なカットがある。微生物なのか、液体なのか、煙なのか、星雲なのか、それらの加工映像なのか、判断がつかない。それらは、前後および全体から判断して、何か特定の具象的存在であると、判断してるにすぎないので、抽象的な画像だといわれてしまえば納得してしまうくらい。

人間は、自分の見ているものを、そのものを直接受け容れるのではなく、自分が認識済みのもの(既に知っているものの名前)に置きかえて理解している(その認識は、他者から借りたものだ)。

置きかえが起こらないという状態というのは、まったく誰からもイメージを借りていない赤ん坊のように見るか、見ているものが本当に何なのかわからない状態、だろう。

そもそも論として、映像として現前してるものたち全てを観客は直接扱えず、ただ置きかえているにすぎないと言えるのではと思う。

そう感じた途端に、前述の判断不可能なもの以外のすべてのカットが、いったい何であるのか確定することもできないのではとすら思えてしまう。

ツリー・オブ・ライフ』以降のテレンス・マリック監督作品の答え合わせのようになってる、というか、今作を撮るように、『ツリー〜』以降の作品が撮られ、今作を見るように『ツリー〜』以降の作品を見ればよい、ということがわかるので、だったらこれを一番先に公開すればよかったのにとは思ったけれど、確かずっと作ってて中々完成しなかった(かれ先に別の作品ができてしまった)という事情を聞いたような気がするので仕方ない(『ボヤージュ・オブ・タイム』の方が『ツリー・オブ・ライフ』より『ツリー・オブ・ライフ』というタイトルっぽい)。