仮初に集う(宮﨑駿『君たちはどう生きるか』)


死者と再会することはできる、だがわたし(あなた)が望む姿形、場所でのそれではないし、またそれは一時的でしかないため再び彼らとは別れなければならない、そしてそれがたとえ虚構であったとしても、わたし(あなた)が確かに会ったと思いさえすれば良い。『(彼らは死んだ、では)君たちはどう生きるか』(「では」の代わりに「/」でもよいだろう)。
と、こう書くと、これでこの映画についての話は終わってしまう。これ以上書くことがない、どん詰まり。
2018年のこと、そして2019年のことをここで想起するのは、あまりに敬意を欠いているだろうか?本作中に現れる、人々がまるで、その熱さで溶けてしまうような燃え盛る炎、その炎に包まれた死者との交感は、あまりにも恐ろしい。

この後に、無理矢理書き継ぐなら(そもそも、この世の全ては「無理矢理書き(引き)継ぐ」ことでしかない)、とりあえずまずは、本作の「着替え」について、になる。
冒頭、急いで飛び出さねばいけないところで、主人公の眞人は、寝巻きから着替えるために一旦部屋に戻る。
それから中盤、またしても眞人は、今度は速さだけではなく、誰にも気づかれないよう静かに部屋を出ていかなければいけない時にも、着替えて出立の支度をする。
下着を身に付けてからシャツを羽織る。ズボンを引き上げる。耳に残るのは、ベルトの金具がたてる音。

この2つのシーンの共通点は、いずれも、「母(たち)」の捜索に出発する前である、ということだろう。ではその、捜索される「母(たち)」はどうなるのか?
無理矢理と言った以上、強引に続けるならば、この「着替え」は、前者は葬送、後者は生誕の儀式のための行為なのだろうか。儀式の前に身なりを整えている?
そうして、死せる母親へのオブセッション、が、儀式≒アクションの中で、その当の死せる母親自身のアシストによって、生ける母親へのそれと置き換えられることとなる。

いや、もちろん目的は、キャラクターデザインの統一、なのだろうが、それならばそれで、いやむしろ、それだからこそより印象深い。
より効率よく作り上げることと、しかしそれゆえに「手数」が増えてしまうこと。それでも、この作品は描くことをやめない。描かないという選択肢ははなからない。

出発の準備は着替えだけでは終わらない。道具の調達もそうだろう。
弓矢を手作りする一連のアクションも、ここを描かずしてなにを描くのかと言わんばかりに、いささか強迫的すぎるとも思えるくらいのボリュームが割かれている。しかしこれを強迫的だと感じる方が問題なんだろう。この物作りの描写こそが、次の画、次の展開を導くからだ。物を作らねば、手を動かさねばその物がこの世界に現出することはない、という当たり前すぎることを思う。

押し黙って、観客に気づかれないように、いつのまにか決断し行動し始める少年の、一つの動作は、分割されずにひとつながりのままでそこにある。
そうして作られ、放たれた矢が異なる空間同士を貫き、串刺しでひとつなぎにする。

そして、研ぐシーンすら省かれることのない肥後守から、本作の営為にならってほとんど連想ゲームに近い形で、眞人の扱う刃物が登場する別の場面を繋げたい。鳥のくちばしに空いた穴を埋めるための木片作り、そして、巨大魚の解体。いずれも自分の意志ではなく、他者のための、生物との変則的な触れ合いとも言える行為。命を奪ったり、何かを傷つけるわけでもない。武器のようで武器でない…といえば、そもそも眞人の作った矢も、思い通りに動かない、標的を仕留め損ねるものにしかならなかったし、彼が持ち出して、結果粉々に砕け散ってしまった木刀のことも思い出すことになる。これら未達成の暴力は、それぞれ奇妙な破壊と再生のイメージを提示する。

そうして準備し、出発した眞人が向かう先は、どこでもない場所だ。存在しない、というよりむしろ、場所ではない、非-場所としての場所。
そうであるにも関わらず、いやもしかすると、そうであるからこそ、そこで起こることが、そこ以外の世界全てに影響を及ぼすような、世界全ての時間全てに関わることができる、恐るべき場所。
そこで、建っていることと建っていないことが両立してしまうような、奇怪な異形の建築物たちが次々に現れる。常に崩壊一歩手前、ないし、崩壊しかかっている、またはすでに崩壊している、仮構の建築。
そして、ここから過去作品を思い起こさないことは不可能だろう。建築映画としての宮﨑駿作品。

ただ、もしかすると本作のそれらは、建物ではないのかもしれない。例えば、巨大な本棚、つまり知識の、もしくは無数の出入口の集合体。それも一時的なもの。その瞬間集まり、次の瞬間にはばらばらにときほぐされてしまう。テーブルの上に、危ういバランスで重ねられた積み木のように。

集まって固まることと、ばらばらになり崩れること。集約と分散。今作ではーーと言いながらもちろんここでも過去作品を想起せざるを得ないがーー、水、岩石、木材、砂、土、魚、蛙、妖精、鳥が、ひたすらに集まっては散り散りになる。たとえば、映画ではなくて実際の、磯辺のフナムシが、集まってこちらに寄ってくるが、人間の動きにびっくりしてあっという間に離れていってしまう時のような。
その繰り返しに感じるのは粘り強さだ。ある一つの物体を観察して描写し、それが2つになり、3つになり、と数が増えるごとに同じことを繰り返し、その増えていくこと自体に、逆に減っていき、小さくなっていくこと自体に対しても同様。これらの過程に徹底的に付き合うその様は、なんというか、執念深い。

物体や生物が集まる場所は、その大きさ、量に見合っておらず、狭い。明らかに全員が通りきる大きさではない出口を、大勢のインコが、自分たちの身体を押し込むようにして通ろうとする。ひとところに集まってぎゅうぎゅう詰めになり、密集した肉と毛と羽が変形して圧縮される身体たちが、出口から溢れ出て解放される、その一連の変化、動き。

彼らは、自分たちの身体の大きさがわからないかのように、小さい空間にその身を押し込める。逆を返せばここでは、自分の大きさ以上のものを受け止める、という事態が起こっている。建物の広さにおさまりきるはずのない内容物。そして、人間一人が抱えるレベルを超えた知性。それは、地球、この世界の外からやってきて、この世界以上の量、深さ、広さを持っている。
もちろんこの「人間」や「世界」を眞人に置き換えれば、その知性を継承するか否か、そもそも継承可能なのか、という問いが立ちあがってくるし、さらに別の名前に置き換えることでまた違った意味合いにすることも可能だが、それはまぁ、他の人たちがいくらでもやっているだろうから、ここではやらない。

ところで。同一と思われるくらいよく似ている二つの物(人)が、全くの別物(別人)であること、また、今作で言えば、産屋である石室から現実世界へ戻ろうとする息子の誘いを母親が拒否する、といった、息子の側からしたら理不尽であると思える拒絶(しかしここの場合は、もしかすると出産拒否の隠喩かもしれず、そうなると一概に理不尽とも言いきれないが)の行為、突然屋敷に運び込まれる大量のキャノピーといったような、突如として日常に持ち込まれる異物としての工業的、「工場」的(「産業」的)物体、前述のような空間の歪み、などといったモチーフ群から、カフカ、という名前を導き出すのは容易い。容易すぎてボールが止まって見えるくらい(?)。さらにポーのゴシック小説や、ホーソーンの奇怪な出来事だけが転がっているような短篇(これはもう「ウェイクフィールド」なんだけど)を思い起こしたりもする。今作に宿っているのは19世紀的な不可解さなのか?

…しかし、こうして書いてきて、自分の、アニメーションについて語る言葉の貧困さにたちすくむしかない。
その代償として多義化が発生している、と書けば見栄えはいいが、そんなことはなく、ただ単に寄せ集めで、とりとめがなくなってしまっているだけだ。しかも尻すぼみだし。そしてそれを、この作品に応じて、とするのは、あまりにも…。

あと不敬ついでに(?)書きますが、名前が「眞仁」だったらとんでもないな、とは思った。は?