ジョン・ワッツ『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』

"care"、"fix"、"cure"という3つの単語について。
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最初にメイおばさんの口から"care"という言葉が放たれて、そのアクチュアルさに思わず惹きつけられてしまう。字幕ではそのまま「ケア」だったはず。しかし、この言葉はこの後使われることはなかったように思う。
次に"fix"が、中盤にかなり多用され、そして物語の後半に"cure"が登場する。この2つはどちらも「直す」「治療」と訳されていたと記憶している。
この3つの単語には、明らかに何か関係がある、と言ってみることにする。
では、これらはすべて同じ意味として使われてるのか、つまり完全な言い換えなのか、それともそれぞれ全く別の行為を指してるのか。
それについて、製作側は果たして何を意図しているのか、を考えてみる。
それは、"care"では弱い、"fix"では強すぎる、その中庸にあるプラグマティックな解決策として、"cure"が提示された、という流れなのではないかと。
主体性の薄い"care"でも、偏りの強い、ひとりよがりすぎる"fix"でもなく、複数の意志それぞれが反映され相互に入り混じり具体的な結論へと辿り着く"cure"を、この映画では文字通り最終的な「結論」とした、とも言える。

ただ、最初に登場する"care"と、その他2つの言葉とは、翻訳の違いにも表れているが、含まれる意味が異なる部分が多いんじゃないかと思う。
後者にあるとしても薄い、現状の肯定の要素が前者には多分にある。時には「改善」されない、こともあり得る。そしてその分時間を必要とする。
だが本作ではそれをそのまま貫くことはされず、"care"は退場してしまうことになる。

そして、"cure"の結果起こったのは、あまりにも即効性が高すぎる行為としての、完結したととらえられていた物語の書き換え、としか言いようがない出来事だ(これを、存在するはずだったが作られなかった続編ができてしまった、とはとても言えない。少なくとも自分には)。
果たしてこれは許されることなのか。過去の、既存の作品の否定、ととらえられても不思議じゃない(でも、そういう人が実際どれくらいいるのか、もしかしたら少ないのか?)。
と考えた時、では、これを許さない、とすることを許されるのは、一体誰なのか、という問いが出てくる。過去作を愛した観客なのか、それともその監督か(過去作にもあったサム・ライミ版へのオマージュが、本作は過剰なまでに詰め込まれている)。
さらに、仮にその誰かが許していなかったら、この作品が今の形で完成することはなかったのか、と。……いや、それは、金銭や契約云々の力で完成するだけなんじゃないか。もちろんその苦労たるや半端じゃないだろうし、そういうバックステージ的観点から映画を捉えるのもおもしろいとは思うけど。
結局自分たち(ここには今作で嬉々としてかつて自分たちが演じたキャラクターを再演しているキャストたちも含まれる。生き生きとしたウィレム・デフォー!)で決めた枠組みを自分たちで壊してるだけの自作自演(まさしくジョン・ワッツの、トム・ホランドのピーターがこれまでやってきたことだ!)じゃないか、という気持ちになってくる。でもそれと同時に、この作品が呼び起こす、あらがうことのできない、まるで自分の過去を肯定されるような途方もない感動、を肯定したい気持ちも、両方がある。

しかし、そもそも誰かが(何かが)ある作品の完成を許可する、認めたり、認めなかったりすることが可能なのか。それは、映画における権利とは、作家とはなんなのか、という話にもなってくる。
つまり、主体とは何か、ということ。そして、さらに言えば、主体の許可を得ずに「治療」する、作り替えて別のものにしてしまう、とはどういうことか、ということ。
そして、多分、それを許さないものがあるとしたら、人間の、または物語の、フィクションの、倫理なんじゃないだろうか。
と、ここまで考えてきたことは、もしかしたらアメコミの熱心な読者たちにとっては自明の問題なのかなという気もしてきた。まぁいいです。

ただ、以上のことは、(治療される、ないし、芸術を作る)人間には統一された主体、意志というものが存在する、という前提ありきの話ではある。
意志なんてものはない、とするなら、誰かが何かを決定することは本質的には不可能で、そう見えたり、思えたりするだけにすぎない、ということになるだろう。もしかしたら、今作は、この立場をとっているのかもしれない。だから、3つの言葉、という選択肢(の推移)も、提示されているように見えるだけだったのかも。
…って、そんなのは当たり前じゃないか、映画なんて、結論ありきでしか作られてないし、さらに、映画が、限られた時間の中でしか表現することのできないメディアであることは決まっているのだから(だから"care"は退場してしまったのだ)、いうことなんだろう。

ただ、それでも、やりようはあったんじゃないか。
この映画で起こった、複数の世界の混在、という現象自体はそのままにして、ある単一の世界で全てを解決するのではない、そして、解決不可能だとしてただ放り出すのでもなく、それぞれの世界ごとの問題として、新たな道筋を指し示すとも共に、それぞれの世界へ投げ返すような、結論の、ある種の「先送り」としての"care"。
混在を経ることによって、混在しなかった場合とは異なった結果を生む、という風に描くこともできたんじゃないかと思えてしまうんだけど……。
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うーん、またなんか歯切れの悪い終わり方になってしまった。ジョン・ワッツスパイダーマンの都市性の薄さ(爽快感、開放感のないウェブスイング)とか、ホームカミングから続く乗り物と移動の主題系が本作ではどうなっているのか(代替としてのストレンジの魔術)とか、いろいろあるとは思うんですけど。映像的表象についても何も書いてないし(言えるとするなら、豊かさが極端に削ぎ落とされて、ある種の貧弱さすらある、とは思います。そしてそれは多分意図されてる)。まぁとりあえず、異形の作品であることは間違いない。