『受苦の時間の再モンタージュ』/2つのものを1つにすること


過去の自分が為した出来事によって、今の立場や仕事が失われてもよいのか、もっとはっきり言ってしまえば、このいじめ「ごとき」でキャリアを奪われるなんてひどい、割りに合わない、という考えと、このいじめはさすがにひどいから、なにかしら罰則が与えられないとだめだろう、という考え、この2つがある。
この場合、前者も後者も、いじめの程度が問題になっている。
しかし、いじめの程度というのものをはっきり確定できるのか?たとえば、加害者と被害者それぞれで受け取り方は異なるだろう。
じゃあ殺人はどうか?殺人を犯した人間は新しい仕事ができるのか。どれくらいの殺人なら「セーフ」なのか。刑務所入ってたらOKなのか。
と、考えると結局、この類の問題は、まだ、人類が総体的に扱えるタイプのものじゃないのではと思えてくる。つまり、一般化できるものではない、ということ。人類の知性ではまだ無理である。
と、なると、個別の案件として対応するしかない、となる。
謝罪だって忘却だって無視だって仕返しだって、全部そう。すべて一般化できない。これをしたら絶対に解決、とかもない。解決もないかもしれない。それが個別化である。
というか、いじめというものが、かなり一般化しづらい、というかできないんじゃないかとすら思える。犯罪として扱うことの難しさとかを考えると(いや暴行なんだけど、というのもわかるけど)。

だから、一連の出来事に関して、当事者でない人々ができるのは、いじめ自体、実際に起こしたことより、その起こしたことの扱いの問題とするしかないのでは。いじめを取り扱った雑誌の記事自体とか、喋り方とか、文体とか、そういうこと。
つまり、現時点では、全てが過去の出来事であって、もう文章しか存在しないのだから、これはテクストの問題である、といえる。というかテクストで(取り扱う)しかない。さらに言えば、実は人類には、それしかできないんじゃないだろうか。

さらに、おそらく、一連のキャンセルを呼び起こしたのはいじめ自体ではなく(いじめ自体と皆思っていて、本人もそう思ってるかもしれないが)、その取り扱い方なのではないか。テクストによって誘発されたものだった、と。
誰も気づいてないことに俺が気づいた!とか言いたいわけではないけど。でも、そうした取り違えが起こってるように見える。

…まぁ、今回のことに関しては、ですが。「キャンセルカルチャー」そのものについてはまた別の話。

いじめ自体を問題としている、と多くの人が認識してしまうのは、いじめ自体とその取り扱い方、が、それぞれが表に出てきた瞬間、詳らかになった瞬間に同化し見分けがつかなくなるから。でも、出現する瞬間、の一歩手前では、それらは、2つのもの、別々のものなのだ。

ここで、開会式の映像で使われているモンタージュを思い出した。2つの別のものを1つにしてしまう、重ねてしまう、同じものと扱ってしまうこと。
あの映像では(あの映像でも)、まさしく、音楽と音楽でないもの(スポーツ)が一緒にされていた。まぁ本来、オーケストラの動き自体を音楽そのものと指し示すことはできないから、ある種の安直さでもって、あそこではそうなっていた、と言えるにすぎないが。

話は元に戻る、もしくはズレるけど、問題になっていた記事において、いじめの被害者は不在のまま、加害者と編集者が被害者と同化してしまっていた。それもまた、2つのもの(別れているもの)を1つにしてしまっていた、ということだ。

2つのものを、2つのもののままにしておけばよかったのに、人類は、2つの異なるもの(映像、テクスト、人、事件)が1つであると偽装すること、をやりたがる。これまでの歴史において、幾度となくやりたがってきた。
2つの別のもの、が2つであること、そのままにしておくことが、人間にはできないかもしれない。本来であれば2つのままにしておいても一向にかまわないものを、1つにせざるをえない、という欲望によって、重ねる(重なる)ことを我慢できない。

なぜかといえば、モンタージュとはエンターテイメントであるから、としか(わたしには)言えない。おもしろくなってしまうから、だ。スパイク・リー『ブラック・クランズマン』、における『國民の創生』を想起する。おもしろくしてしまうことには弊害があり、多くの人を傷つけて貶めるかもしれない、しかしそれでもなお、我々は、おもしろくすることを、おもしろがることをやめることができない…。

とか、まるで誰にも責任がないように書いていますけど、そんなことないっすよねぇ!?ともなって、結論を先送りさせていただくしかないのだった。

なお、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの本は読んだことはありません。