ツイッター雑感


実際に、ではなく比喩として、ツイッターが使えなくなり、使う気も起きなくなったので見る頻度が減った。とはいってもまだ1日目なので明日以降自分の気持ちがどうなるかはわからない。
じゃあ他のもの、って言われてもよくわからない。正しいものにしかベットする気がない、というわけではないけど、とはいえ、この場合の正しさや誤りがどういうものなのか(勝ち負け、でもいいけど)、それもまたわからないので何もする気が起きない。その、成功と失敗を区別したくない、どちらかに与したくない、というのはただの怠惰だなと思う。勤勉さとは、決断し、常に自分の立ち位置を取り決めていくことだ。

そもそも、ツイッターというものの存在を発端に何かを真剣に考えるという気が起こらない、ということかもしれない。ツイッターはいつかは終わる。いやもちろん、終わるものにこそ真剣に向き合うべきだという話もあるが。
で、例えば、…本は無くならない、なんてことを思ったりもするし。…でもそれはほんとうか?本も無くなってしまうのが現代なんじゃないか。じゃあ何が残るか、というか、「何も残らない」のが現代なのかもしれない。no legacyの時代。時代というか、世界というか、今を含むこれから先の時間・空間がすべてそうなる。それしかないならそれでいい、とするしかない、のか。肯定するでも否定するでもなく、選択肢もなく、ただ、付き従うだけ。岩船山で爆発を背にしたり顔でこちらをみるイーロンに?(なぜか浮かんでるイメージ)

あと、青いバッジがつくのが恥ずかしいけど、課金するのもやぶさかじゃない。これは、日本人が、ちょっとした水たまりがあるとすぐ硬貨を投げ入れてしまうようなノリです。あの無為さは嫌いじゃない。

そして、どうやら、無駄なことをつぶやいて、それで人のツイッターHPを消費させてしまうらしいので、もう有益なことしかつぶやけない。自分も確かに、有益なことを得たいと思っていたからしょうがない面もある。しかし無益なものと有益なものの区別がつかないのにも良さがあった…のか?これってポストトゥルースの問題か?

有益?