カルロス・フエンテス『アルテミオ・クルスの死』

終盤にある、アルテミオの生誕と死を、並行して描くくだりは最初からこういう構成になるだろうなというのはわかりきっていたのでそれをまんをじしてみたいに勿体ぶって登場させられてしまうと、『モレルの発明』を読んだ時と同じ感想になってしまった。

ただ、物語は本質的にすでにわかってることや知っていることを後追いするしかないゆえに、これはわかりきってることを描くこと自体ではなく、その構成や描写のやり方に問題が潜んでいる。

それは、出産の瞬間をそのまま描写するような、(予想を超えて絶句するほど)即物的であることにも通じてる。

この、生々しくて豊かなイメージが目一杯に詰め込まれた小説は、その中に埋もれて目がひたすら離せなくなるのが良い読者であると規定しているかのようだ。

実際確かにそういう風に読者を精神的ないし身体的に支配する力を持つといった意味で「力のある」作品だと言える。

これらは、言ってしまえば映像的かつ映画的、さらに言えばブロックバスター的であるということかもしれない。あくまで「メディア」として、ということであるけど。

生と死の瞬間を描けるものだと過信してる(それがつまり「全て」を書ける「近代小説」なんでしょうけども)より、その瞬間は認識不可能かつ不可視であり、さらに人間は常に(本質的に)その瞬間に立ち会うことができない、という立場の方が信頼できるし、そういった意味で一貫してその瞬間を避け続けているナボコフの方が好きだなと思ってしまった。