シェーン・ブラックアイアンマン3』見た。

初日に見るはずが、よくわかんないトラブルのため途中からしか見れず、いてもたってもいられずそのあとすぐ見た。
ガイ・ピアース演じるアルドリッチ・キリアンが、A.I.Mの事業内容を説明するため、ペッパーを、自身の脳内の立体映像の内部に招き入れる。そこでは一瞬、宇宙が投影されたりもする(間違えた、といってすぐに消されるのだが)。これら2つは似ている、とキリアンは述べる。
今回のヴィランは、ここで示されているイメージ、内部と外部の反転、を徹底して引き起こす。アメリカ内に、中東のテロリスト、のイメージ、を招き入れ、価値転倒、を発生させる。アメリカ大統領(「世界で一番権力を持つ」?)、と、世界一の「敵」を同居させる。
しかしそれはホログラムと同様、まがいものに過ぎず、実体はない。テロの首謀者マンダリンは、イラクでもなくパキスタンでもない、マイアミの高級住宅で作られ、合成、加工され演出された映像にしか存在しない。
さらに、どうやら、経済的な成功を目論んでいる、かのような口ぶりだが、実際は、ただ、その混乱、を必要としているにすぎないんじゃないか、という気もしてくる…。スイスの高級ホテルの、寒々しく誰もいない屋上に居たままの、いつまでたっても、「中」に入れない、入れなかった男の目的は、逆転させ(「M.I.A」と「A.I.M」)、「外」を「中」に混入させること、だけだった…?エンドロールにて、ガイ・ピアースレベッカ・ホールはそれぞれ、名前のクレジットが出る際に使われる画が、かつてのスイスのそれ、だったことも示唆的ではある(本来の姿?…)。

一方、ヒーローは。
今作で、アイアンマンスーツは、これでもか、というほど、その主人である社長から離されている。「中身」のない状態でも、ばらばらに解体されていても、自律して動く。機能停止したスーツを引きずり、ソファーに座らせるトニー、という画まであり、それはまるで、アイアンマンとトニー・スタークが、分裂したようなイメージを与えられもする。
装着されることなく飾られている、無数に作られた「息子」たち、スタークの意志とは関係なく(ださい名前とカラーリング、「パスワード」を与えられた)カーネル・ローズ(とアメリカ合衆国)によって使われる旧・ウォーマシン。
『2』までで、あれほど明確だった社長のアイデンティティ、つまりは自己とアイアンマンは「一心同体」であるという思想は崩壊する。
その、全能感の消失、は精神的苦痛を呼び起こし彼を追い詰めてゆく、が、しかし、それは、最終的には、決して悲観的な結論にはならない。
例えば、誰がスーツを着ても構わない、という発想。それは、守る者と守られる者、は決して固定しなくてもよい、ということでもある。いじめられっ子の少年や、ペッパー・ポッツに助けられてもよいのだし、どっちが先に助けた、なんてことを気にすることもない、という境地までに、最後は達するだろう。なにせ、エアフォースワンから落ちる全員は、1人では到底助けられず、その当の落下する人々の手を借りることによって為されるわけだし。
そして、残る自己は、一流経営者でも、放蕩息子でも(これらはすでに『2』で捨てている…これらの属性自体、およびそれを捨て去ったこと、がトニーの敵となり、彼を苦しめもするのだけれど)、アメリカの・世界の守護者でもなく、エンジニアとしての(「何か作る」人としての)それ、である。整備士としての自分だけが救済となる。そもそもこの物語の始まりがそうだったじゃないか…。
しかし、この終わり方で、はたして次はどうするんだろう。

そして、エンドロール最高すぎるので、それだけ何度も見たい。過去の映像使うのずりぃし、タイトルの出方(「IRON MAN THREE」!)かっこよすぎる。
あとスタン・リーどこ出てたんだろうか。わからんかった。

あまちゃん』、みんなで歌ったり飲んだり、飯食ったりするとこだけでもあがるわぁ/橋本愛のスキャンダル、に、臼田あさ美を思う/ミスドのリニューアルまじで気にいってる/阿部和重が映画について語ってる内容、というか語り口か、なんか、腑に落ちない…でも『ブラック・ダリア』は見たくなった/