井筒和幸『ヒーローショー』見た。
傑作。

ジャルジャル福徳演じるユウキが、消費者金融から飛び出して、懺悔を叫びながら、今自分のいる場所から逃げようと走り出し、ビルとビルの間の路地に駆け込むが、そこは行き止まりで、出て行こうにも出ていけず、ドアをたたけば開かずに言葉が通じない。
つまり、どん詰まり、だ。まさしくこれが、彼らの置かれた状況だ。でもそれに対する認識や過ごし方は、それぞれ違う。
鬼丸兄弟のように、DQNになるというのも一つのやり方だろう。ここでのDQNは、ただ単に暴力的なだけでなく、他人を押しのけて自分の主張を(大きい声で)し続けること。自分のいる場所を、むりやり居場所にしてしまう、というか。
じゃあ我々は、こういう人間と相対さねばならない時、どうすればよいのか。自分の居場所すら見つけられず、それだけでなく奪われてしまうかもしれないなかで。
この映画で選択されているのは、彼らを上回る暴力だった。悲しいことに。

自衛官の石川勇気は、東京で不穏な金稼ぎをしている同級生から、相談され、即、圧倒的な暴力を選択し、実際のリンチ当日でも、完璧に道具をそろえ(この凶器の身につけ方がすばらしすぎる)、率先して暴れまわるのだけど、その一方で、恋人との未来を夢見る彼は、一夜の間、その行動や、心情が、揺れ動き続ける。リンチの進行(…)について、相談されても常に、どうしたらいいかわからない、という逡巡の表情を示すのだ。血気盛んな行動や言動をし続けているにもかかわらず!
この映画のリンチのシーンが素晴らしいのは、登場人物たちがひたすら揺れ動き続けているからだ。勇気だけでなく、拓也も、ヒロトも、勉も、ノボルも。彼らは、誰一人、決定的な選択を行わない・行えない、そんな中で、暴力だけがエスカレートしていってしまう。迷い続ける彼らはしかし、その場その場で、最悪の行動をし続けてしまう、決定、という行為を抜きにして。そこでは、罪のなすりつけ合い、すら起こらず、なにか、不気味で突拍子もない、地に足の着いていない、とでも言えるような行動や考え方が次々生まれる。(よくわからないおやじに埋めさせる、肝臓を売る、…)。

ジャルジャル後藤が素晴らしい。あの悩む表情。セリフ。殴り方や、座り方、車の運転の仕方、などの立ち振る舞い。「バカヤロウが!」をあんなにかっこよく言えるとは…。登場人物たちは、みな汗をかき、薄汚れている。
それだけでなく、みながひたすらやばいリアリティをもっている。意味ないプロレス技かける先輩。馬鹿な後輩とその馬鹿な彼女(あの自己紹介!)。バツイチ子持ちの年上彼女。息子の同級生とセックスしラブホから出てくる母親。
車中からの風景、夜景、勝浦の海沿いの家での配管工事、山の中、夜中ぽつんとあるスーパー、夜明け、何もないアパートの一室と、ユウキの妹が待つ中野のアパート…。冒頭からタイトル、カットの代わり方が、すごい気持がよい。

それに、追突事故の唐突さがすごいつぼだった。その前の、ナンパするくだりとか、花火とか。

あと、現金のやり取りが頻繁に行われる、のも、おもしろい。

今思ったのだけど、現代韓国映画のもつ強烈さがここにはある。もちろんそれを超えた、今の日本のどん詰まり感が濃厚なんだけど。

毛利嘉孝『ストリートの思想 転換期としての1990年代』買ってちょっと読み始めた。うーん。