ドゥルーズ『批評と臨床』読む。
《象徴には何の意味もない、説明すべきことも解釈すべきこともなく、寓意の知的な意識とは逆だ。それは回転式の思考であり、(…)始まりも終わりもなく、われわれをどこにも導かず、終止符などは絶対になく、段階すらもない。(…)象徴は行為と決定の過程なのだ。象徴が、渦巻きのイメージをもたらす神託に結び付けられるのは、そうした意味においてだ。というのも、われわれが本当に決定を下すのはこのようにしてで、われわれがわれわれ自身の内部で、われわれ自身に対して、どんどん速く旋回し、「ついには一つの中心が形成され、どうすればいいのかわれわれにわかるようになる」ときだからである。》(p103-104)。セグメント=点を打ち、直線的な寓意の思考に対して、象徴は流れの思考だ。
《みずから自我と考えるのをやめて、流れとしての、流れの集合としての自分、しかも他の流れと、自己の外で、そして自己の内で関係を持つ自分を生きること。(…)流れの生としての魂は生きる意志であり、闘争や闘いだ。(…)これは戦争とは逆だ。戦争は自我の参加を強要する全体的な消滅だが、闘いは戦争を拒絶するのであり、魂の征服なのだ。(…)侵すことができない部分が魂に生じるのは、われわれが自我でなくなったときだ。》(p109-110)
マゾッホ…《口ごもること―吃ること以上に、宙吊りにすることであり、奪回であり、増殖であり、分岐であり、偏流である、そんな口ごもること。》(p120)
アメリカでは、個人的なことが大きなこと―民族、州を巻き込む。《アメリカでは、エクリチュールはもともと痙攣的なものなのだ(…)断片的なるものがアメリカの生得性(…)》(p123)
断片の「異質な諸部分の集合としての」、「終わりなき」パッチワーク、サンプリングとしての世界…《事例のサンプル、光景あるいは眺め(scenes, showsあるいはsights)のサンプル。》(p124)
ドゥルーズ読んでると、やっぱカフカ重要、とか思う。これ読み終わったら、『カフカ・セレクション』読むか…いいかげんナボコフも読みたいんだけど。あとロレンスの黙示録論もマゾッホホイットマンも(スピノザも)読みたいとは思うが、ドゥルーズで読んで面白く感じるように読めはしないという気がする。ニーチェは違うけど。本人の方がおもしろい、というよりか、濃いものが読めるという感じ。
インセプション』キャストがやたら豪華、というか、流行のつぼを押さえまくりなキャスティングだな…。中身が中身だけに、売れにいかないと、ってことか。
ベスト・キッド』『特攻野郎Aチーム』『グリーン・ホーネット』『エルム街の悪夢』『プレデターズ』(ちょっと違うか…)…テレ東か、っていうセレクトだよなぁ、今となっては、だけど。
山崎新喜劇、冴えてる。こーいうんだよなガキは。
フィンチャーもノーランも監督としては好きじゃない方だけど…と、ずっと思ってたけど、いやもしかして好きなのか。