ライアン・クーグラー『ブラックパンサー』


1992年のプロジェクト、バスケットコート(子供達が、ティム・ハーダウェイみたいに……と言っててうわっカニエじゃん、と思った。"Like Tim, it's a Hardaway"……)から子供達が見上げる曇天越しの飛空艇の光。それはまるで宇宙から飛来したUFOのよう。そのUFOは彼ら黒人の祖先がこの地球にやってきた時の乗り物でもあり、死した彼らを遠い地へ運ぶものでもある。この「UFO」云々ってのはもちろん比喩だしそんなこと本編にはないんだけど、ことエリックにとっては、まさしくこのように感じられたのではと思ったりする。
と考えて、あのシーンだけではないけど映画全編にアフロフューチャリズムというかブラックサイエンスフィクションというかPファンク感というか、そういうものを感じた。ビジュアルの強烈さには、ジャック・カービーという人の偉大さを門外漢ながら感じたので、何か作品を読んでみたいとも思ったり。そして宇宙から飛来したヴィヴラニウムという設定もそれを匂わせてるように思えた。これに関して、序盤のナキア登場シーンのジャングルで助けられた人々が見上げる様子とかにもそれを感じた。そもそも、アフリカに隠された圧倒的力を持つ超国家、その存在を知る者もいるが他言無用、というある種の陰謀論に近い設定もそうだと言えるのかなと。


もう一つ、印象的なモチーフといえば「紫」。韓国でのカーチェイス、夜景の色彩の統一感。紫色のネオン、ブラックパンサーの体を走る光。紫は高貴な色にして、昼と夜のあわいの色、あの世とこの世が交わる空間の空の色。その中では、あったこととなかったこと、ではなくて、あったかもしれなかったこと、現実の過去にはあるはずのなかったやりとりが起こってしまう。常に非常の決断をする王と革命を志す過激派は、悩める若者でもあり、sの両者の立場は交換可能であることが示唆される。だから彼らが結末を迎えるのは夜でも昼でもなく美しい夕焼けの中だ。


そして、新しい世代は、結局前世代と同じことを繰り返してしまうんだけど、それでも、エリックは父が為せなかったことを為して、ティ・チャラも父ができなかったことをしてあげれたんだ、というのが、終盤の数分のシーンにおいて、役者の力によって成立させられてしまっている。エリックの結末、演じるマイケル・B・ジョーダンの圧倒的力によってめちゃくちゃ意義深いものになり、めちゃくちゃ泣いてしまった。クリードに続いて、美しく心を打つ泣き姿(途中めちゃくちゃ『クリード』じゃん!てとこあった)。

にしてもラストの、ある現実の政策に向けてのそのものズバリなセリフ、内容もなのだけど、それを陛下が世界に向けて演説するという形で描いた"そのもの"さも強烈だったな。置き換えられたり、喩えだったり、そういう間接さが全くない描き方。キャスティングも含めて、言葉通りの2018年・現代の最重要作品とするしかない。あの部屋にPEのあのポスターはさすがに直截すぎるだろと思ったがしかしそういうものなのだ(?)、それが現代なのだ、ということ。


それにしても、"妹ヂカラ"すごかった。けどただ、007に過剰に思い入れがある人間ではないけど仮に本作が007であるならその妹のシュリとティ・チャラのやりとりの中で「壊すなよ」があった方が良いし、カジノシーンも戦闘に入る前にもっと充実した描写(ギャンブル描写とか、お酒とか、男女のやりとりとか)があるべきなんじゃないかとは思う。

クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』


とりあえずイーストウッドでいうとまさかの『ヒアアフター』の系譜だったの驚いてる。卑近な言い方してしまえばスピリチュアル的な、運命論的な。と考えて、最近のイーストウッドはみんなそうかと思い至った。
しかしこれ本当に一体なんなんだろう。いや何もくそもなく、「映画」だよってことなんだけど、じゃあ「映画」って何?と聞かれても、「さあ…なんなんですかね…」としか答えようがなく、終わります。
例えばラスト、あのニュース映像の使い方、繋げ方は、『パトリオット・デイ』や『スノーデン』見てて「いやこれはさすがに…どうなん…」と思ったことと同程度のことをイーストウッドかましてるのでおお…となった(ほとんどなんも言ってない)。「開き直り」の半端なさ。
あと、スペンサーの部屋に『硫黄島からの手紙』のポスターが飾られてたのは事実なのかどうか、とか、あと星条旗も本当に飾られてたのか?とか……。
そしてナレーションで始まるのだけれど、なんと驚くべきことに(驚くべきことに?)その話者によるナレーションはそれのみ、ラストは異なる人物による語りにやって終わる。じゃあ冒頭のナレは一体なんなのか?
つまりとりあえずここ数年のアメリカ映画の実話物、実録物の流れにありながら、堂々と逸脱してるのは間違いない。
そしてもちろんAmerican Hero("Sacrament Hometown Heroes")の映画でもある


そういう意味で硫黄島のポスターがあるのは正しいってことか。
あと、序盤の2人の母親と教師の面会シーンから、もちろんタイトルも含めてやたらと時間が強調されているのと、「黒人は狩猟はしない」というフレーズの『ゲット・アウト』への目配せ、が気になりました。

マイケル・グレイシー『グレイテスト・ショーマン』


P.T.バーナムという「マジでヤバイ」人が今際の際に熱("Your fever")にうなされて見た走馬灯のような映画(バーナムが「どうしよう……そうだ!"ユニーク"な人だ!(目キラッ)」ってなるのとか言い換えの怖さ感じた)。夢と妄想と理想と願望が入り混じって区別がつかず、結果何に一番近いかと言えば「悪夢」です。
ミュージカルが現実と非現実の境目を揺らがせ非現実が力づくで現実を歪めてしまい現実を改変し問題解決してしまうものなら、今作は、その「現実」に「非現実」を代入してる。徹頭徹尾全てが虚構、まやかし、嘘、ペテン。なぜなら最初から最後まで劇場から外に出ないから。
例えば、パーティーに加わろうするバーナムのサーカスの面々がその当のバーナムに疎まれて排除されるシーンで「This Is Me」が流れ始めるからてっきり乱入すんの?と思いきや会場は素通りして彼らは意気揚々と劇場へ戻る、でそこで喝采を浴びて歌が終わる。ある人物のセリフで、劇場=家(サーカスの仲間=家族)という内容の言葉が出てくるんだけど、まさに、劇場にとらえられ、そこから出られなくなる男ないし人々の物語だった。金を稼げること、優秀なこと、がその立場の弱い人間を救う、という思想、まあわかるよとなる一方でわかっていいのか…?ともなるから心中複雑。
それに、エンドロールのストーリーボードみたいなもの?を提示する演出まじでなんなの。「全ては描かれた絵でしかない」とでも言いたいのか。あと、気になったのは20世紀FOXロゴが冒頭2回出てくること。1度目はカラーでおそらく昔のもの、2度目は今のものモノクロにしたもので、それがそのままオープニングクレジットへ繋がっていく。これにどんな意味があるのか……(多分「入れ子」的なイメージなのかもなと思う)。


あとサントラ聴いてるんだけど、さすがにジェニー・リンドの歌はレベッカ・ファーガソンではなかった。そうならめちゃすごいなと思ってたけど。

ニコライ・アーセル『ダークタワー』


はっきり言って大好き100万点。めちゃくちゃ良かった。
神話のない国アメリカで、病的で狂ってパラノイアックな物語を紡ぎ続け、我々の想像力を豊かにしてくれている偉大なるスティーヴン・キングへ敬意を表し感謝したい、と強く思った。病んで狂った神話が、世界の真実であり、世界を救うという、それ自体がまさに狂っているといえる発想よ。表層的には全く似通ってないけど、この作品を見てる間頭をよぎっていたのはエルロイだったりする。エルロイとキングという、1歳違いの2人の小説家は、共にイルでマッドで仄暗いアメリカの擬似的神話をぶちあげ続けて、その偽物=物語でもって登場人物や読者を絶望させ救済する。
そしてファーストカットで、まさにアメリカの昏さの徴とも言える、一見平穏な住宅地の風景、しかし色味の抑揚はなく、化けの皮一枚剥がせばそこには異形の悪意が潜む(突然けたたましく鳴り響くサイレンは、明らかに敵襲警報の寓意では?)、という画が作られてるのだけでうれしくなる。そして舞台で言えば、廃墟と化した古い一軒家、ボロボロの木の板、は最早キングのイコンですね(しかもその木材が、敵へ重要な情報を伝えてしまうという)。
さらにふと、関係ないんだけど、『マトリックス』はあまりにキングすぎるな…もはやキングの二次創作じゃん、と思った。

しかしあらためてマシュー・マコノヒーないしマコナヘーa.k.a.マコ兄は「面(ツラ)」の俳優だよなあとしみじみしたね。ツラで全部持ち去ってしまう。

マーティン・マクドナー『スリー・ビルボード』


最っっっっ高のヤバ映画。ビルボード=広告("Billboard lady"という鮮烈なイメージのフレーズ!)も、そこから、広告屋、契約、契約金、法律、放送と報道、そして警察、と数珠繋ぎに溢れ出てきてとまらないモチーフが、ピンチョンを思わせる。そうなるとさながら"Mason & Dixon"ならぬ"Mildred & Dixon"といったところだろうか。そうなると、「3枚の看板で世間へ波紋を投げかける」「看板を見せつける」みたいな行為自体がそもそも映画じゃなくて小説みがある。そして印象に残るのは看板の表(visual)よりむしろ裏面(literal)?


ある一つの暴力が発露される。全ての始まりとしての、罰せられない暴力。それによって人が傷つけられる。ではそれ対する「報復」は、その暴力を生み出した存在へと為されるかと言えばそうでなく、それとは別の代替物に対して為されることになる。
そして、目には目を、歯に歯を、炎には炎を、憎しみには憎しみを……いやちょっと待て、そうじゃない、"愛"なんだ!という、「曲がりくねった直球」の物語。
これ、つまりビリヤードってことだと思うんですよ。暴力の球つき、突かれた球は別の球にぶつかり……。

誤解を恐れず言うなら本作を斬新な展開とか言うの的外れだと思う。1台のワゴンが田舎道に差し掛かり、運転手がガラス越しに視線を外に投げかける、その冒頭シーンはかつて何度も見たことがあるはずだし、作中人物が劇的な行動に出る前には必ずワン「クッション」が作られてる(これもビリヤードですね。無理やりですが)。
しかしそうして、「停滞」と「連鎖」が続いていくうちに、いつの間にか、途方もなく、とんでもない遠くまで連れていかれ、膨大な時間が経過したように感じられる。

印象に残るのは、ピーター・ディンクレイジの色男・伊達男っぷり。そしてサム・ロックウェル(祝オスカー!)演じるディクスンの恐るべきナイーブさ(巡査部長に慰められてる時のあの泣きじゃくる姿、そしてのちの署長の手紙のある一節……)。

キャスリン・ビグロー『デトロイト』


この構成の歪さ、異様さはなんなんだ。もちろん事実は小説よりも奇なりで、実在の登場人物たちの最早奇怪と言える現実の言動(そういった人物に対して何度も「ドラッグやってんの?」という問いかけがあるくらい)や、遭遇する有り得ない出来事によって要請されてるわけなんだけど。そして「狭く」て、延々と続く「蛇足」感の強いストーリー。
なんというか、うまく言えないんだけど、とりあえず事実とされる出来事をかき集めて、それをとりあえず時系列通りに並べ繋ぎ、そこから逆算してセリフや人物描写や人の動きを考え出して隙間を埋めたような感じ、みたいな……そういう意味で、今作をリアルだと評するの、正直よくわからん。


何度か劇中で「フォード」という単語が出てくるの、もちろん土地柄ということもありますが、創業者ヘンリー・フォードの政治性の事も考えさせようとしてるんではないかと思ってしまった。さらに、フォーディズム、そして大量工業生産の性質としての「動きだしたら止まらない」は、権力による暴力装置も同じじゃない?と暗に示してるのでは(考えすぎですが)。
もちろんこれって悪徳白人警官の事でもあるし、その警官が相手でも黒人が相手でも同じように恐怖で威圧し追い詰める取調室の刑事の事でもある。では、どちらが本当に恐ろしいのか、「止まらない機械」なのはどちらか。
さらに劇中に現れる裁判制度や、経済システムに組み込まれた音楽(これに、作中のある人物は強烈な拒否感を示すわけだけど)も同じなんじゃないか。いったん作動すれば停止できない。そしてもしかすると、逸脱するには「死」しかないのか?という。まあこれはあまりにひどすぎる推論ではあるけれど。ただ、これに対しては、無人の劇場で歌い、そして物語の最後も「その先」でも歌い続けるためにある選択をする人物が、一つの答えを示しているのかも、とも思う。

例えばジョン・ボイエガ演じるディスミュークスという人物の曰く言い難さ、捉えがたさ。彼の持つ生き生きとした「仲裁」技術(コーヒーを持って出ていく手際の良さがもたらしてくれる鮮烈さ!)。おそらくその延長線上にある、事件への介入行為…それはしかし、結果論で言えば、ほとんど無意味かもしれない、ただそんな割り切って人は行動できない。機械の中で、決まりきった動きの中で、いかに状況にあらがうか、「この夜を生き延びる」(survive the night)か。彼が本当の意味で「何もできなかった」のか。そう言い切るのは、少し躊躇したほうがいいと思う。

あと、デトロイト市警の激ヤバ警官三羽ガラスの1人、シング・ストリートの兄ちゃんじゃんか!と悲しくなり、ジョン・クラシンスキーa.k.a.エミリー・ブラントの旦那が颯爽と現れてまた「てめえ!!!(怒)」みたいな役で腹立った。

ディーン・デヴリン『ジオストーム』


こういう作品を自分としては「ウェルメイド」と言いたい。"よいもの"でした。
別にそう思ってる人がいてもいいんだけど今作はエメリッヒではないと思うし、そもそも、なんていうんですか?バカ映画(こういう言葉大嫌いだけど)とするのマジで全然違うと思う。
エメリッヒ作品には、連鎖的に起こり続ける「破壊」「崩壊」の出来事の現場に登場人物を居合わせさせて、そこからの逃走を繰り返すことでストーリーを進行させ、それが解決とほぼイコールになるシンプルさがあるんだけど、『ジオストーム』は出来事と人物の間にギミックをかませてきちんと構造化してる。そして、終盤に並行して起こる複数のスペクタクルも、目的を多層化させている(逃走する、解決する対象も複数になっている)。物語自体も異変・事件から直接始まらず、きちんと「裁判」(正確には「査問会」ですが)という出来事を間接的・事後的にしか扱えないもから始まるのちゃんとしてます。
ある兄弟のやり取りとそこで用いられる(かつての思い出、過去の象徴としての)暗号の扱い(ラストも含めて)の手さばきにはしびれたし(きちんと「陰謀好き」な「男の子」を皮肉ってもいる)、終盤のアンディ・ガルシア演じる(ってのがまず最高なんだけど)合衆国大統領とエド・ハリス演じる国務長官の短いやり取りのセリフも非常に簡潔ながらきちんと内容の詰まった整えられたものですばらしかった。