笙野頼子『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』を買った。
久保保久『よんでますよ、アザゼルさん。』3巻を買って読んだ。一つのエピソードの中で必ずいらいらさせられたりばかにしたりしかし愛すべき人々(田舎のシンナー漬けのヤンキー、「あがり」を目論む年増の風俗嬢、とりあえずその場の流れで穏便に事が起きないようにすることしかしないゆるい男性教師、そのものずばり(すぎる)のオタク、それにもちろん、悪魔たち)をとりあげそういった人々の生態を逐一細く描写する、というのが使命だと思われて描かれている。女の子失踪は休憩のようだけど、この子があとに出てくるんだろうか。あとは天使との戦いがありそう。
《なんで こんなものに お金払うの この人達》《そして なんで こんなにお金 もってるの!?》

佐々木中『夜戦と永遠 フーコーラカンルジャンドル』を読み始める。最初がラカンで、けっこう読める。鏡像前と後についてだし。
寸断された身体を統合する、鏡に映った「凍結」した自らの姿は《何か奇妙なのだ。それは凍りつきすぎている。動かない。(…)ひとは鏡の前で静止しており、静止しようとするのだ、その鏡の姿があたかも死んでいなくてはならないかのように。そう、想像界において他者に投影されたイメージは死んでいる。つまり自らの外にイメージとして投影されなくては存在しない「自我」は、死んでいる。そこに照り映えた自己のイメージは死のイメージである。》(p38)
そうして得た自我は「小他者」である。そしてそれは死んでいるもの、欠けているものである。その「小他者」は「わたし」だから、つまり、欠けているのは「わたし」である。そして、それを欠けさせている「誰か」が存在している。そしてその「誰か」も「小他者」であり、「わたし」である。ここで、傷ついているのも傷つけられているのも「わたし」、という、「わたし」の増殖、想像界の小他者の蠢動が起こっている。そして最終的に、その欠けさせている、奪う者としての「誰か」=「おまえ」=「わたし」を殺すまでいってしまう(エメ)。
これを終わらせるためには、「おまえはこれだ」という象徴界のことば、法が必要だ。「おまえはあの「わたし」でも、あの「わたし」でもなく、これだ」と。それは精神科医が言いたいこと、なんだろう。《誰かの妻になる、誰かの夫になる、誰かの弟子になる。こうしたことが決定的な「象徴的な」「位置決定」を可能にする。》(p50)そしてそこには、天空の第三者、大他者が必要であり存在する。哲学者の神。保証するもの。約束を請け合うもの。…これはなんか、2人が互いに相手を定礎する時、おぼろげにいるこの約束を支える誰か=他者、ということでもあり、それはまた具体的な姿を持つのかも、しれない。