大岡昇平『成城だより(下)』読み終えた。
老人であること、を意識せざるをえなくなり、だからこそ自分が書けないモチーフを他の作家に書いてもらいたいと願ったり、宗教・自我・女性・日本古代史・文学(史)など、についての問題の「最終的」な決着をつけようとしたりするのだけど、そうした動きとは一見相反するように、『堺港』にかかずらわって、さらに漱石に、『明暗』論にとりくみ、つまり、小説的論文やら論文的小説やら小説やら論文やらエッセイやらなんやら書いたり口述したり、出かけて映画を見、テレビを嫌々ながらも見(見させられてしまう電気の映像)、当然ながら読書をし、現代の国際政治や国内の問題(いじめや日航機や血液製剤など)に関心を示して世界の行く末を考え鬱々としたり(そして体調を崩したり一日中寝てたりもするわけで)、大岡昇平は、片付け(仕事をし)ながら片付けなどせずどんどん現在を積み上げていく。
そうして影響をがんがん受けていく(ように見える)んだけどそのある種のナイーブさ?のようなものはすごくて、こっちとしては、富岡多恵子上野千鶴子三枝和子の鼎談を読んで《女を描くのがこわくなった》(p375)と書いてしまえるのに色んな意味でどきっとしてしまう。
一方で《(…)口だけは減らないから、ますます悪しくなり行く世の中に、死ぬまでいやなことをいって、くたばるつもりなり》なんだから、最高。
「売れようと売れまいと大きなお世話だ」と言った人なのだ、なにしろ。
とりあえず大岡昇平の本を読もう、それだけじゃなく、村八分を聴いたりジャック・アタリを読んだり、やっぱりスタンダールを読んだりルルの映画を見たりしようと思うし、興味を持つことを一生辞めることなんかねぇな、と思う。
とかなんとか思いつつロブ=グリエ『迷路のなかで』読み出していきなりなんかどうでもよくなった。