渋谷でポン・ジュノ母なる証明』見た。

事件の内部に、ぽっかりと開いている深淵、その暗闇が、母子を含む人々や彼らの住む町に繋がっていくという恐怖と、わからなさが生む彼方へ放り出されるような恐怖。
それら二つが混ざりあい、判別がつかない。その象徴的な存在がやはりまずはトジュンだろう。事件にまつわる言動はもちろん、普段から、彼は境界線上に位置している。わかることとわからないことの。それは記憶の曖昧さに裏打ちされている、と少なくとも思える(そしてそれは、ふいに思い出すという行為(指圧…)によってさえくつがえされない)。
しかし、その不安定さがなくても、ジンテもまた、境目にいる。科学捜査の本、ゴルフクラブ、携帯動画、そして脅迫と警察まがいの行動(母親に対する本当に不穏な「指導」)。
事件の核心に関わる人物たち、アジョンやその祖母(なぜ嘘をついたのか)、携帯の少女や、二人の高校生、写真屋のミソン(画像は現像したのか)、おっさん(なぜトジュンを見ていたのか、なぜ彼も撮影されていたのか)や、最後に登場する男(このシーンは戦慄した)、はみなすべて、その地点に立っている。
では母親はどうか。彼女だけは、わかる側に立ち、わからなさに挑んでいっているようでもある。しかしトジュンが蘇らせた記憶(しかしそれは一度脈絡なく挿入されているのだが)によって一瞬、わからなさに引きずり込まれそうになるが、今度は、わからなさを自分の側に引き入れて飲み込んでしまおうとする。
(口紅の、血液の、母親の洋服の)赤がひたすら登場するわけだが、それが一概に不吉なものかと言えばそうではなくて(少なくともアジョンの殺害現場にはなかった)、やはり狂気とか一線を越える決意みたいなものの色として登場するのだろうか。そしてこれらは、母親に属しているものととらえてしまうならば、最後に彼女の色は変わってしまう。いやそうではなくて「最初から」変わっていた(最初から彼女は踊っていた!!!あー今思い出してもやばすぎる)。だからつまり、赤も青(紫?)も、種類が違うだけで狂気ということか。わからなくてもわかる、か、わかった上でわからない、か。
それから指先が濡れる(血、消毒液、ミネラルウォーター)ことによって、観客にも登場人物にも生み出されるものの一つは、短時間の圧倒的な緊張感なのだけど(集中を強制する感じ、というか)、それに対して、水辺や雨(車に乗り込む時のトゥーフェイスばりの素早さ!)の不吉さ・不穏さは、当然だけど持続的だ。で、問題は、トジュンの立ち小便のシーンで、母親から漢方を飲まされながら排出される尿がコンクリートに描く軌跡(そして、手の動き)が最高に邪悪さを感じさせてしまう、のはこちらの病気、だろうな。
あとは、カメラワーク。人物の動きに合わせる中で激しくぶれ、結果的に何が行われているかわからなくなるあたり、今までとは違う印象を受けた。もちろん、オープニングや漢方店からの外の見え方、、カートからの二人、面会室から出る件、言い出せばきりがない数々のシーン、それらを発展させたようなすばらしいトジュンとジンテのゴルフ場での会話のシーンも無論あるのだけど。それから(暗闇を)覗きこむ、という行為も。
にしてもやはり、「邪悪さ」を思い浮かべてしまう、すべての人物・出来事に対して。この事件が起こらなかったら、例えばジンテはああじゃなかったか?ということを考えると、繋りなく「罪は回る」という言葉を思い出してしまう(どっちみち、あの町での、あの悪意の噴出は避けられなかった…?)。母親とのシンメトリー(対等とも少し違うような)の関係性をトジュンは実は望んでいて、それが成功するまでのストーリー、とも言えるかもしれない…それは、罪を回すことにより為された。
顔の傷、投げられた石、針、林檎、といった欠片にどうしてもひかれてしまう、ひかれさせるような映画だった。