小島信夫『美濃』読んでいる。「それだけで何ものかなのだ」、(起こったか起こってないか、事実か虚構か)「どちらでもよい」。


クエンティン・タランティーノイングロリアス・バスターズ』を新宿で見た。

くそやばいものを見せつけられたという感じ。なんなんだかよくわからん。なんなんだかよくわからんものが映画ってことか?これは無数の決断によって成立っているのなら一つ一つのファクターは選択され残ったものということで、じゃあなんでこうなるように(どうなるように?)選んでいったのか、そこらへんがわからん。目的がぽっかりと空虚で、探そうとしても見つからん。
演じることが多重化していく。アメリカ人やイギリス人やドイツ人やユダヤ人はそれぞれが生きるため/生き残るために違う人種を演じ(しかしそのことのどこが間違っているというのか。当然じゃないか)、女優やスパイといった自分を偽らざるをえない人々が登場し(スパイじゃないのにスパイになったり)、隣人を匿うために嘘をつき(今度はその隣人にばれないように演技をし)、正体当てゲームをやり(自分ではないものになる)、知っているのに知らないふりをし(その逆も)、映画では自分の役を自分で演じ(As himself)る。それらは、例えば、フレデリックとショシャナの最後のシーン…映画の中では不死身の(映画に出ることが死であり不死であるということ?)英雄が死に、その姿が見比べられる時の切なさや、ヒコックス中尉が八方塞がりになりそれでもやらなくてはならない状況におかれり時のどうしようもなさ、ドレフュス家を売ってしまった時の涙、ブリジットが靴をはかされる時の絶望、といった、人間の極限的な感情の揺れ動き、緊張を生み出す。この映画における会話では、この種の緊張感にみち満ちている。
それに対して、レイン中尉は、語学堪能なランダ大佐と違い、何よりもまずその発音によって出自を示し続け、ナチスが軍服を脱ぐことを拒み、印を刻む。彼は、何か別のものになること、を拒否する(彼自身が恐らく首の傷によって何ものかになることができない…?)。ランダにも、きっちり責任をとらせようとするわけだ。とはいえ彼は、ほとんど演じないからこそ逆にこの映画では、活躍してるんだかしてないんだかなんだかよくわからん、脇役なんだかよくわからん、中途半端な感じさえする人物なんだけど。
そうして、演技者は皆ろくなことにならない。ではヒトラーゲッベルスなんかどうなのか、ということについては、まず、まじかよ!!という感情がわきあがり、その後、いやもしかしたら彼らも演技者だったのかも(それにも幾つか次元があるが)と思ったりした。
映像としては、人体が損傷する瞬間(剥いだり傷つけられたり銃で撃たれまくったりがしつこく映し出される)や、ヒトラーゲッベルスチャーチルなど歴史上実在の重要人物が、いとも簡単に登場してしまう/映されてしまう。そのあっけらかんとした感じ、あっけなさが、演じるとかふりをすることとかと両立していてしかし不安定さも感じる。
女性の存在(戦いや死に方)、音楽の使い方、一瞬の激しい銃撃戦、死んだふり、頭の足りない人間たち、はタランティーノな感じだけどしかし、いつもとは違う感じもし、また別格の作家になったと思った。
クリストフ・ヴァルツ=ランダ大佐は、やばすぎると思った。ハンカチを見つける時やミルクを飲み干す時、万年筆にインクを入れる時、ショシャナを見逃す時の呼び掛け、ハンカチを見つけた時、お菓子を食べる時、靴のくだり、急にテンションが上がる時、等々の所作がいちいちぐっとくる(ちょっと違うがレザーのコートがたてる音もよかった)。何よりあの圧倒的な語学力!クリストフ・ヴァルツはすごいいい俳優だと思った。
そしてラスト。あのなんだか途方もない夢だか悪夢だか妄想のような映像。映画館の暗がりに浮かぶヒトラーの爆笑、空中に軌跡を描いて放たれる煙草、燃え盛る炎、スクリーンの女の視線と響き渡る高笑い、マシンガンの乱射、爆発。
しかしこれらも一面的だ…まったくもって。