マーク・ウェブ『(500)日のサマー』を渋谷で見た。

キスもセックスも喧嘩も仲直りも全部サマーからで彼女の言うこと為すことを度量があるふりをして受け入れその実我慢して(と本人は思っている)徹底的に彼女を神秘的なブラックボックスに仕立て上げてしまったトムよ…。うまくいくわきゃあない。しかしなぜ『卒業』で号泣したのか、なぜパーティーに呼んだのか、本当に「踊りたかった」だけなのか、(そもそも最初に、なぜサマーは酔った同僚の発言を蒸し返してトムを追及したのか)と考えるとあのラストに対しての戦慄のもう一つのストーリーを浮かび上がらせるのも可能っちゃあ可能だが…。
彼女が好きだといった音楽をわざとらしくかける(そういうもので「しか」こっちに振り向かせられないと思っている)、勝手に結論を求めたくせにぶち切れて(もちろん「本当に」ではない)去っていきふて寝して向こうから謝ってくるのを待つ、気まずい関係になるとかつての楽しかった頃の(彼女も笑ってくれた)発言や行動を虚しく繰り返す(無論効果なし)、などなどなどなど、トムのすべてがどうしようもない。
作中のフランス映画のパロディ、ズーイー・デシャネル「ハプニング」発言。サントラも買った。
で、品川でスパイク・ジョーンズかいじゅうたちのいるところ』見た。

うーんくそやばい。こどものインナートリップ。かいじゅうたちはすべてマックスの中の何者かの現れだ。その不安定な関係、どうしようもなさを統合しようとしてもうまくいくわけがなく、そのままを肯定しなければならない。他者(それは自分もまたそうだ)に対しても。
にしても、ミニチュアや砦の造形はさすがだし、かいじゅうたちの動きのいい意味での雑さとか、マックスの声の出し方(強弱)、なんかにこども性みたいなものがありとあらゆる所に満ち満ちていた。個人的には、マックスの船出の時に海?に浮かんでいた空き缶にぐっときて、ジュディスが顕していた生きずらさに悲しくなり、別れのラストに涙し、絵本の最後へとつながる食事のシーンも最高だった。サントラ買おうとしたが控えた…。エンドロールに「The Jim Henson's Creature Shop」があっておおーと思った。あと「かんしゅう じんぐうてるお」にも…。
ただ…この2作品で感じたのは、いつまでも失わない(失えない、失おうとしない)少年性、それを回復し支えてくれるはずの女性=母は頼りにならず、そうした少年性(あえて言えば自己中心性みたいな)からは脱却して(自己を完全なものととらえ自分が自分の支配者となる…支配者と思い込むのをやめる)、他者に歩み寄る(自分という他者の存在も)、という流れで、まぁそれはそれでいいのだろうけどね…と思った。
ジャック・デリダ『精神について ハイデッガーと問い』読む。