ドゥルーズ『批評と臨床』読む。
《たしかに、メルヴィルの小説の多くがイメージや肖像からはじまっていて、父親的機能のもとでの人格形成の物語を語っているように思われる。(…)ところが、毎回、何か奇妙なことが起きて、イメージを乱し、イメージに深刻な不確実さを刻印し、形を「とる」のを妨げるのだが、それだけでなく、主体を解体し、成り行き任せにさせ、父親的な機能をことごとく消滅させてしまう。(…)父親の彫像はそれよりはるかに曖昧な父親の肖像に取って代わられ、さらには、取るに足らない人物、というか誰でもない人の肖像にその場を譲る。》(p162-163)これからさらに変化し、人間ならざるものが現れる。《漠然とした力が台頭してくる》。《主体は自己の組織を見失い、その代わりにパッチワークが無限に増殖する。アメリカ風のパッチワークが、中心を欠き、裏も表もないメルヴィルの作品の法則》だ。形が抜け出してくる「表現特徴線」(トレ・デクスプレッション)、とは、あの「彫刻」の地図、と同じだろうか。