ソーシャル・ネットワーク』めっちゃ混んでたので(ので、っていうのも失礼な話だけど)、ロン・ハワード『僕が結婚を決めたワケ』見た。

関係ないんだけど、てことはないかもしれないが、パーティーが行われる映画、というジャンルというが分類ができるんじゃないかという気がする。
そのパーティーは、誰かが祝われるということの他に、主要登場人物にまつわる何らかの事件が起こったり、または事件の解決がなされたりする。
ということとは別に、パーティーという場での振る舞いや言動(知人や初対面の人物との挨拶、ハグ、会話)を描くことが、(あえて言い切ってしまえば)ハリウッド映画の特色だ、という感じがする。
で、引き合いに出したいのが ペイトン・リード『イエスマン “YES”は人生のパスワード』で、ここでは、パーティーに参加したり、そこで行動を起こし続けることが、主人公に(…うーんまぁ、ドゥルーズ的な)事件を発生させる。
つまりそれは、この映画の場合は、ひたすら「イエス」を言い続けることなんだけど、それは、起こる事件をひたすら肯定し、それにのっかり、発展させ、またそれに振り回される、つまり自分の主体としての機能を手放し、それを事件に預ける、こと、だ。
これは極めてハリウッド的人物描写であって、それを『イエスマン』ではデフォルメしてるわけなんだけど、『僕が結婚を決めたワケ』のロニーは、まさにそうした人物として、行動していく。親友の妻の浮気に対して、(いつの間にか、という感じもするが…そしてその感じが重要なんだが)留まることなく、身を任せていってしまう。そのせいで、厄介なことになっていったとしても。
そういった意味で極めて正統な(?)ハリウッド映画だった。
劇中で度々登場される映画ネタ(キッチンのテーブルの上のDVDとか)が、その正統性を裏付けしてる…かどうかは正直わからんけども。
ラスト近くの、グループセラピーについて。ここには、正直、なんでお前がいるんだよ的場違いな人物が参加するわけだけど、そもそも、(また話は戻って)パーティーという場自体が、そういうものじゃないだろうか。結果的にパーティーにこだわってしまってるけど、このセラピーでの告白のわけのわからなさには何かある。あれだけ繊細に扱われていた事件がここでは、なし崩し的に明らかにされてしまう。し、複雑な事象は、2人の男の友情の問題に集約される。そして、その単純化の力となるのが多用される「Sorry」だと思う。とかく彼ら彼女らは自らの非を認めまくる。このことについても、もっと考えたいんだけど…。
気になったのは、ヴィンス・ボーンとケヴィン・ジェームズは、なんだか似てないか、ということ。いやもちろん、背格好は違うのだけど、ぱっと上半身が映った瞬間の相似性は高いような気がする。こっちが日本人だからか?この2人の役柄なら、人種すら変えて明確に差異を打ち出してもいいはずだとは思う。
あと、クイーン・ラティファの伏線というのはなかったんだろうか。てっきりニックとくっつくのだと思ってたけど。不思議と彼女は(若干あからさますぎるきらいもあるけど)ロニーとしか2人きりにならなかった…。
その流れで言えば、この映画は、2人の組み合わせの会話のシーンが多い。冒頭の4人のシーンも、巧妙に分断されているように感じた。
それはそれとして、ウィノナよ…。
予告でつかわれてた「Misery」は流れなかった。
榎本俊二『斬り介とジョニー四百九十九人斬り』(異常にかっこいい…『ムーたち』末期と横山裕一感、あとは(的外れかもしれないけど)白土三平的な動き)と平野耕太『以下略』(なんで今更…読んですげえつかれた)と西炯子『ちはるさんの娘』1巻(4コマで恋愛のすれ違いかぁ…しかしこの人は絵がうまいなぁ)買って読み終えた。