『記号と事件』を読み終える。
どうぶつの森」で、魚が釣れるのだけれど、当然、川や池や海に魚は現われるのだが、では、その魚は、いつからそこにいたんだろうか?おそらく、こちらが発見した瞬間に、いる、のだと思う。で、何回か、釣ろうとして、結局失敗すると、水の中に消えていく。底のほうへ行く感じ。まぁ、そうして、その魚を釣る機会が失われたことが、端的に示されるわけだ(現実の魚は、もっと、釣れる、と、釣れない、の、曖昧な間にあるような気がする)。虫も、同じように、捕まえることができるのだが、幾分魚と違うのは、地面に底がない、ということだろう。蝶とかの羽のある虫は、何回かの捕獲が失敗すると、空に飛んでいって画面の外へいってしまうことで、消えた、ということになるけど、地面を這っている、例えばバッタとかは、すっと、消えてしまう。その「あれっ?」という感じは、魚や蝶の比じゃない。実際のバッタは、草むらに隠れてこちらから見えなくなってしまうだけで、そこにいる(んじゃないか)ということは、なんとなくわかる、感じる、というか了解している。

規律社会(監禁)から、管理社会(「恒常的な管理と瞬時に成り立つコミュニケーション」と「開放環境」)へ。前者が、個人は個人として、集団は集団として、ととらえていたのに対して(「群れと個人の対」)、後者は、数字でのみとらえる(個人は分割され「可分性」(dividuels)となり、群れも「データ」「サンプル」「マーケット」「データバンク」に)。そして、規律社会においては、一つ一つの段階が終わるごとに、別の段階へ放り込まれ、新たなルールを覚えていかなければならなかった(学校では「ここは家じゃない」、会社では「ここは学校じゃない」)。さらに、それぞれの段階では、はっきりと、雇用者に最大の利益を、被雇用者には最低の賃金を、となっていた。得する人間が、はっきりしていた?管理社会では、終わりがない。すべてが一つながりになっている。評価の水準は変形するだけ。そして、段階の中では、1人1人が競争させられる。それに勝てば、より利益が得られる、というていで。個人個人が競わされる、というときのこの「個人」は、「individuels」ではなく、おそらく、その特徴や得意分野や、仕事の内容やかける時間、などによって、細分化されている。こうした、管理社会で、戦うには、今までとは違う新たな闘争方法が求められる。《自分たちが何に奉仕されているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。彼らの先輩が苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように。とぐろを巻くヘビの輪はモグラの巣穴よりはるかに複雑にできているのである。》p366規律社会の、「監禁」の動物モグラから、管理のヘビへ。《それでも、実際に管理社会の組織がととのう以前の段階で、新しい形態の犯罪や抵抗(このふたつはきちんと区別されるべき事例です)があらわれることもあります。たとえばハッキングやコンピューター・ウィルスがそうで、これらがストライキや、十九世紀には「サボタージュ(怠業)」と呼ばれていた(機会に投げ込まれた木靴(サボ)を意味する)行為の代わりになることもあるでしょう。》p352でも、これはあくまで、可能性。ネグリの、新たなコミュニティの誕生もありうるんじゃないか、という(ちょっと楽観的すぎるような気もする)発言に対し、ドゥルーズは、以下のように言う。たとえ、マイノリティが発言する機会を与えれたとしても「言論も、コミュニケーションも、すでに腐りきっているかもしれない」のだから、「言論の方向転換」や「非=コミュニケーションの空洞や、断続機をつくりあげ、管理からの逃走をこころみること」が重要になってくる。
《マイノリティとマジョリティは数の大小で区別されるものではありません。(…)マジョリティを規定するのは、遵守せざるをえないひとつのモデルです。(…)これにたたいして、マイノリティにはモデルがない。マイノリティは生成変化であり、プロセスであるわけですからね。》p347-348
《芸術とはすなわち抵抗のことです。死に抵抗し、束縛にも、汚名にも、恥辱にも抵抗するのです。》p349
この「恥辱」は、テレビとか見てて、別に、意味も関係もないのに、なぜだか「うわーはずかしいー」と感じてしまうこと(と勝手に理解した)。これが、哲学へと志向させるきっかけの一つでもある。p346
社会を規定するのは、逃走線。それを書け/発見せよ。p344
《(…)ふたつのこと、つまり歴史のなかにある革命の未来と、生身の人間がおこす革命の生成変化とを、いまだに混同している》p343革命へのネガティブなイメージ、中傷はここから来ている。
歴史における事件、ではなく、今起こるもの変化するものとしての〈事件〉。
《ところがシンタクスは、統辞論とも、さらに言語そのものとも異なる何か(つまり言語の〈外〉)に向けて張りつめた緊張状態のことである。》p332
定点ではなく、線。線は〈あいだ〉である。〈あいだ〉から襞が生まれる(〈あいだ〉=襞であり…)。p326
《まず、一般的にメディアが最初と最後を見せるのにたいして、〈事件〉のほうは、たとえ短時間のものでも、あるいは瞬間的なものでも、かならず持続を示すという違いがあります。そしてメディアが派手なスペクタクルをもとめるのにたいして、〈事件〉のほうは動きのない時間と不可分の関係にある。しかもそれは〈事件〉の前後に動きのない時間があるということではなくて、動きのない時間は〈事件〉そのものに含まれているのです。たとえば、不意の事故が起こる瞬間は、いまだ現実には存在しない何かを見る目撃者の目に、あまりにも長い宙吊りの状態でその事故がせまってくるときの、がらんとした無辺の時間と一体になっているのです。(…)グレトゥイゼンも、あらゆる〈事件〉は、いわば何もおこらない時間のなかにある、と述べているではありませんか。待ち望む者が誰もいなかった予想外の〈事件〉にも狂おしいまでの期待が宿っているということは一般には見落とされているのです。〈事件〉をとらえることができるのは芸術であってメディアではない。たとえば映画は〈事件〉をとらえています。小津がそうだし、アントニオーニがそうです。》p323-324
スピノザの『エチカ』。《スピノザの概念を理解できなくても、誰もがスピノザを読むことができるし、スピノザによって強い感動をおぼえることも、みずからの知覚のあり方を刷新することもできるのです。》p335「概念」を理解することは、「哲学的理解」だけど、それを飛ばして、「非=哲学的理解」に達することもできる。「被知覚態」や「情動」(多分)。『エチカ』読みたい。