昨日、録画していた『舞妓Haaaan!!!』を見た。阿部サダヲが何度も白ブリーフはかされていた。あの見た目が面白いもんなー。あと、最後の方で、柴咲コウ阿部サダヲ堤真一と義妹、の会見が重なるところとかが、宮藤官九郎っぽいと思った。新商品・新システムが生み出されるとことかも。あの、内藤貴一郎のようなキャラクターがいた気がする。まんがかなにかで。

渋谷で『20世紀少年』見た。3度の爆発(空港、ケンヂの実家のコンビニ、国会議事堂)が良かった。単純に爆発が好きなだけか?あと、海ほたる刑務所の空撮もかっこいい。
ARATAが良い。きれてるのが、過剰じゃなく淡々としているのが。だから暗殺のシーンも見ていて、うわっ、と思わない。あのぶつ切りな感じも、鼻にはつかなかった。あと、ドンキーの奥さん(名前を忘れた)がうまいと思った。おこがましいけど。夫を失った悲しみが、きわめて普通に表現されていた。ヒントを伝えるとことかも、ぜんぜん不自然じゃない。そしてミッチーはすばらしい。ともだちのよこで、満足顔なのも良い。トヨエツはかっこいい。「死ねばいい」(だっけ?)から、きたな、という感じ。手振りが、さらっとしてる。ユキジに、「ここに残る」と伝えるところとか、マークの説明をするところ。ケンヂがいなくなる第2部でほぼ主役だと思うので楽しみ。子役も似てた。
最後の、東京崩壊、ディザスターなシーンがいい。ビルの合間からちらちら見えるロボットや、中継画面が、一応今のディザスター映画に、とりあえずなっていた。あわよくば、もっと人が死んで欲しかったのだけど。木下さんのコギャルとかが。
マークの連鎖的発見、知らず知らずのうちにまわりをとりかこまれている感じ、が、もっと気味悪くなっていて欲しかった。とはいえ、ドンキーの手紙やキリコ宛ての手紙、あたりから、だいぶきちんと気持悪くなっていたけれど。
あの、あの、いきなり、すっと、緊張が最高に達するシーン、例えば、万丈目が、喋っていて、いきなり、ともだちのアップになる、というような、シーンは堤幸彦だなと思う。
ともだちの頭巾(?)をかぶって喋る時、口の辺りが喋るのと呼吸にあわせて動くのが見れて良かった。

電脳コイル6』を読んだ。いよいよ不快な感じになっている。不快な大人(「部長さん」やヤサコ父、タマコもか?)と子ども(イサコを探す子や、観音小)の存在、が、物語を不穏にしている。イサコがどう動くのか?あと猫目の位置は?とりあえず、子どもはみな賢い、という当たり前な事実がきちんと書かれているのはいい。これが反転されることはあるんだろうか?

『記号と事件』。文学について。《速いテンポで商品を回転させていると、必然的に〈予期されたもの〉の市場ができあがります。「大胆なもの」ですら、あるいは「スキャンダラスなもの」、そして風変わりなものでさえ、市場で予想されたとおりの型におさまるようになる。しかし、文学創造の条件とは、〈予期されざるもの〉やスローテンポの回転や漸進的な普及がなければ生まれない、きわめて不安定な状態なのです。》p257創造対市場。そして、創造的なものは、《たとえばフランス語を使う場合でも、新しいシンタクスはかならず国語内の外国語となる》p269。
《いまもとめられているのは、言うべきことが何もないという喜び、そして何も言わずにすませる権利です。》p261誰かに白状させられる、という発言の無意味さ。議論や、意見、もそうか?
個人は確定的な、わかりきった存在ではない(p285)。だから必然的に、個人があるという前提の意見は、おかしい。
《言語が等質の体系であることをやめ、不均衡と、恒常的非等質の状態に置かれなければならない。文体は言語のなかに潜在性の差異を刻むわけですが、そうなれば言語と言語のあいだに何かが流れ、何かがおこるようになるばかりか、言語そのものから閃光が走り、語の周囲を満たす暗闇に沈んでいたため、それまでは存在することすらほとんど知られていなかったさまざまな実体を、私たちに見させたり、考えさせたりするのです。》p284文体は、語の「ジグザグ運動」、語が、「ある語から別の語へと波及する閃光」を生み出すときにあらわれる。
ドゥルーズは、教師にとって授業は「話すような歌」であるべき、といったり、哲学が死ぬ時は「笑い死に」だろう、といったりする、その単語が面白い。

いい加減晴れて欲しい。もうこのままだと、普通に秋になってしまう、と思うんだけど、まだセミが鳴いていたり蒸し暑かったりはするので、もちこたえている感じはする、夏が。
そして、昨日中古のDSを買って「どうぶつの森」をやり始めた。なんだか、いろんなことができるらしいんだけど、なにが今できるのか、できないのか、その境界がわからなくて、とりあえす村を走り回っている。