『記号と事件』。《もし主体があるとすれば、それは自己同一性なき主体なのです。プロセスとしての主体化は一種の個体化であり、個体化は個人的であっても集団的であってもいいし、一個人についておこなわれても、多数についておこなわれてもいい。そして個体化にはさまざまなタイプがあるのです。「主体」タイプの(それはきみ、これはぼく、といった)個体化もあれば、〈事件〉タイプの、たとえばそよぐ風、気圧、一日のうちのある時間、戦いといった、主体なき個体化もあるのです。ひとつの生や一個の芸術作品が主体として個体化されているかどうかは、まったくもって定かではない。フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。日常卑近な状況でも、すでにそうでした。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ気圧の変化とか、一種の〈事件〉、あるいは電界か磁場など、人間ならざるものに見えたのです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の世界に属するものではなかったのです。強度がいくつも集まったような状態。》p233-234
《一方の愛情は人称に従って個体化をとげ、もう一方の熱情は強度によって個体化をとげる。》p234
《つまり〈人間〉という形態はきわめて特殊な一時的条件のもとにあらわれたにすぎないのです。》p238
哲学と運動。起源・定点から考える・そこに戻る・回帰する、のでなく、常にいまここで、動くもの・運動、が重要。哲学自体が、その運動になる(「運動について…」ではなく)。ベルクソン
映画とは、運動を表現しながら、それ自体が運動している。表現するもの=表現されるもの?
運動から時間へ。
フーコーの、レーモン・ルーセル論、をとりあげるドゥルーズ、の文章を読むと、まずルーセルを読まないと、と思う。
襞。折りたたまれると同時に押し広げられるもの。
外の線へ向かうことが、一番、内界へ、自己へとむかうこととなる。しかしそれは、主体の獲得、再獲得、回帰ではない。あくまで審美的(ギリシャニーチェ)自己への主体化。「主体なき個体化」、でなければならない。そうして、死や狂気と対決する。外の線へ向かうことが、自殺や死を招くことがあるやも。
《感覚運動の図式とは、つまりスクリーン上の人物が知覚し、何かを感じ、その感覚にたいして反応するという図式です。その前提となるのは抜きがたい思い込みでしょう。主人公がなんらかの状況に置かれ、その状況に反応する、そして主人公は、いついかなる場合でも常に正しく反応すると信じていなければ、感覚運動の図式は成り立たないのです。》p247ハリウッド映画的人物。思い込みによって動く。絶対信じる。
『フランドルへの道』。なかなか進まない。が、面白い。でも、その面白さを、どう言っていいのかわからない。