『増補 ネオリベ現代生活批判序説』を読み終えた。
エリートのための高等教育、大学が市場と深く結び付く、日本の大学では宗教(国家教育)と経済が奇妙な野合をしている。《デリダが言っていることですが、キャピタリストの「キャップ」(cap)というのは、キャプテンのキャップで「頭」つまりトップという意味です。だからキャピタリズム(資本主義)というのは、「頭」つまりトップを重要視する。頭と肉体、光と闇、というような階層化された序列にキャピタリズムは貫かれている。》(p216)
ノートルダムエッフェル塔といった(今現在はその力を失ってしまっている)《郊外にまで求心力のおよぶような都市のシンボルとしては、誰でも自分の部屋の本棚に置いておけて、しかも時空を超えた理念的な確信をうることができる「書物」というものがあります。マラルメは「世界は一冊の書物に到達するために存在する」と言っていますが、それは「グローバリゼーション」に抵抗するためのアイデアとして貴重なものです。》(p228)
マクドナルド化した主体=「解離した状態で適応している主体」=脈絡のない状況に適応しながらも、自己開示を回避するために人格を多重化させる=究極的に「フレキシブル」な主体であり、「敵対」も「当事者性」もない=多重化された自己によって、直接的生を担う自己が失われている(p238)
教養の「自己形成」が「自分で自分を作る」ことなら、サブカルやオタクの「自己形成」は、「他者で自分を作る」ことなのか?(p238)
アーレントの「現れの空間」=立ち現れること自体が肯定される(p243)
《まず第一に、高額な授業料が経済的な階層の整流装置となっていることはあきらかである。子供たちは何歳のときに身のほどを知るのだろうか? 第二に、高額な授業料を課すことで、学生が、利潤の最大化をめざす「市場個人主義」者へと作り変えられている。つまり、もとは取らなければならないという意識の蔓延。そして第三に、学生が使い捨ての労働力の安定した供給源となる。いったい何百万人の学生がバイトをしているのだろうか?》(p247)
労働と所得が切り離される(ベーシックインカム)への不信感こそ、ネオリベ化である…本来ならば別々であるってこと?(p251)
福祉=脱商品化=労働力の商品化への抵抗として考える。(p259)
未払い労働としての家事、を脱却=脱家族化(p262-263)
金より無償性の確立、それと生存への賃金?=ベーシックインカム(p265)
《学生には奇跡が起きている。そういう意味で、大学や学生にはふつうの時間軸がはたらいていない。時間が客観的な尺度となっていないということは、授業料にしろ給料にしろ、煎じ詰めれば時間を金銭の尺度ではかることですから、そういうロジックが通用しないということです。五年前のことはよく思い出せないけど、一〇〇年前の芸術の方がリアルに感じる。大学はそういう空間で、そういう時間が流れている。だから大学では一時間あたりいくらっていうことはいえない。これは大学というコンセプトのもと、人類が時間をかけて勝ち取ってきたものです。》(p294)
強迫的コミュニケーション=無理矢理語らされてしまう、語ることなどないのに(ドゥルーズ)?(p309)
《だが、ネオリベ化した社会では、「問題の認識はあっても、そこに直接性を担った当事者性はなく、他者にじかに対峙するという無媒介性が回避されている」。というのも、われわれの日常そのものが市場の論理によって媒介されているからである。あらゆる行動は利潤を最大限にするための手段とみなされ、たとえ交渉があっても、せいぜいのところ価格の交渉にすぎない。失業、フリーター、ニートといった問題についても同じである。それらは労働力市場と関連付けられた「政策」の課題となる。当事者たちがそれぞれ固有の仕方で問いかけ、行動し交渉の場に立ち現れる回路は遮断されているのである。》(p236)
《かつてフーコーイラン革命(一九七九年)について、「革命」と「蜂起」を峻別しつつ語ったことがある(「蜂起は無駄なのか?」高桑和己訳『フーコー思考集成?』筑摩書房、二〇〇一、九四-九頁)。フーコーにとって、「革命」は「戦略」に沿って展開されるものにすぎなかった。それは何らかの大義に照らして、「正統性を付与」し、「選び分け」、そして「定義づけ」ようとする。他方、「蜂起」には「戦略」はない。「蜂起」とは「生がもはや交換の対象でなくなる瞬間」であり、この立ち上がる「生」こそが諸権利の「最後の繋留点」となるという。》(p240-241)
日本政府は、国連から求められている「高等教育の漸進的無償化」を保留しつづけている。(p245)

東村アキコひまわりっ 健一レジェンド』10巻を買って読んだ。出てくる人の年代や属するグループがばらばら。それがまとまることなく進むからますます暴走してくというか。猿渡主任やエビちゃんの元も子もない発言が連発される。
ケンイチ2号は去った。がしかし戻ってくるような気がする。『きせかえユカちゃん』のお姉ちゃんが戻ってきそうなのと同じで。5巻あとくらいに。
これは『バクマン。』との比較で読むことができる…気がする。漫画家生成の物語として。漫画を書こうとする人物が登場する漫画。