イーヴリン・ウォー『回想のブライズヘッド(下)』を読み終えた。語り手が、過去のある時点から語りだし、再び(まさに「ブライズヘッドふたたび」)語り手のいる現在時へと戻ってくる。読み始めとは異なる印象を語り手に抱くことができ、再読へと誘われる…ということでは、『嵐が丘』とか『ジョルジュ大尉の手帳』とかと同じといえるかもしれない。『嵐が丘』は所々現在に戻ったり『ジョルジュ大尉』は手帳とは視点の異なるテクストが混入してきたり全然枝葉のエピソードがあったりと、物語に脱線する要素が在る。『ブライズヘッド』は、一人称ということもあって(でも『嵐が丘』も『ジョルジュ大尉』もそうだけど)、基本ライダーが体験したことが流れるように連なっていくので脱線をあまりしていないように感じた。しかし、例えばライダーが、物語を先取るようにして、ジューリアが自らの結婚生活の失敗を語るのを語るのはおもしろい。《(…)くわしい話を聞いたのは、その後何年もたってからだった。》(p63)と言ってさらに先に、ジューリアの結婚に至るまでをジューリアからライダーが「聞き出した」ということで三人称で語り、さらにジューリア自身の言葉によって結婚の破綻を匂わすようなことが語られしかしそれらは《大西洋の嵐のなかで、ジューリアがわたしにこういうことを話したのは、十年後のことだった。》(p107)のである。
内容について。
カトリック的なもの。神的なものの問題。それを受け入れるか受け入れないか(より厳密にいえば、その受け入れ方や拒否の仕方によっても)で人間はわけられる。
古き良きものは消え去り、戦争もあり、政治や経済なんかによって新しいものにとってかわる。
セバスチアンとジューリアという、似ている兄弟を、得ようとしたライダー。
二度と来ない、と思っていたブライズヘッドに何度も再訪する。

フラナリー・オコナー全短篇 上』を読み出した。ものすごいおもしろい。その場にいる、会話していない人が何しているか、や、天気とか、話者ではないものをきちんとそしてさらっと描くのがうまくて、その感じが映画だなと思う。あと悪態のつき方とかもうまい。これはエンターテイメントなのか。

ありふれた奇跡』で微妙にリアーナがフューチャーされてた。