『増補 ネオリベ現代生活批判序説』を読んでいる。
イタリアのアウトノミア運動について。
《(…)社会には敵対がここかしこに散布されています。生きているかぎり、敵対性をもって「敵」として自分の生を阻むものが立ち現れてくるはずですから、またそうであるからこそ他者や異質な者とのネゴシエーション(交渉)の可能性がとうぜん生じてきます。(…)逆に、透明を欲望するネオリベ化した社会には、政治としてのネゴシエーションが出てきません。これは政治の領域がなくなるということです。ネオリベラリズムは「政治」を恐れますから、政治が可能な領域をできるかぎり、限りなく縮減しようとする。先ほどの「テンパった」状況(注・「マネーの虎」の挑戦者たちの様子)では政治が可能ではなくなっていますね。ネオリベラリズムはこれを狙っているのではないでしょうか。敵対が感知しにくくなっている。》(p93)
問題の解決がすべて間接的、遠隔的になってしまう。(p97)
生産者でなく消費者(VS労働者)としてしか存在しない。(p98)
落書きは、《市場の回路を経由しない表現》であり《その出現そのものが取り締まりの対象となる》もの。(p139)
《「私たちは毎日運動している。/会社にいったり、会社をさぼったり、他人に絡んだり、絡んできたバカを泣かせたり、いい歳して扶養家族だったり、プイと家出したり、友だちの家に居候したり、訳のわからないイイ奴を居候させたり、保険料を払わなかったり、年金の催促状に逆ギレして区役所に抗議したり、電車でキセルしたり、公園に集まって酒を飲んだり、えらそうに説教する「公共広告」とやらを剥がしたり、道端にタバコを捨てたり、食い物を万引きしたり、つもりもなく食い逃げしたり、ようするに、なんだかんだで生活しているということは、それ自体、運動だ。」(「ムーヴメントのすすめ」『無産大衆神髄』四四-五頁)》(p177)
ドゥボールスペクタクルの社会についての注解』の孫子『兵法』からのエピグラフ。「あなたが置かれた立場と状況がいかに危機的なものであろうと、何も絶望してはならない。あらゆることが危惧される機会においてこそ、何も危惧する必要はなくなるのである。あらゆる危険に取り巻かれている時こそ、何一つ恐れる必要がなくなるのである。いかなる手段もない時こそ、あらゆる手段に頼らねばならないのである。不意打ちを受けた時こそ、敵自身の不意を突かねばならないのである。」(p173)
徹子の部屋に出てた竹中平蔵。家の中に「経済」をもちこみ、主婦は1円からでも起業しろ、と言っていた。
イーヴリン・ウォー『回想のブライズヘッド(上)』を買って読み始める。