今一応継続的に見てるアニメ。『PSYCHO-PASS』と『中二病でも恋がしたい!』なんだけど、後者の良さは、ほとんどAURAのそれで、しかもより繊細な手つきで語られてるからこっちの方が好き。サイコパスは、2話で、ええーっていう男主人公の台詞があったんだけど、それをめちゃくちゃ不愉快にひっくりかえすことを虚淵先生に期待している。ディストピア設定は悪くない。

阿部和重クエーサーと13番目の柱』読み終えた。迂闊に解釈できない感じ。
Extra Dimensions、つまり多次元と、「de ja vu」、いくつもの成立可能な「現実たち」のホログラフ(無数の起こり得た/起こり得る出来事)、複数の視点(監視カメラとCCD、パパラッチと監視チームと匿名監視員/見られる側と見る側の反転)、繰り返される交通事故(しかしそれは、「ご都合主義」によって抽出されたにすぎないものか)、何度も描写される部屋の風景。
複数の世界、という概念が、形状を変え、幾度も描かれる。ディックではなくバラード。
ベン・アフレック『アルゴ』見た。

言及しなかったけれど「Argo,Fuck yourself!」の3人、すばらしい。
すごい傑作。半端じゃない。『危険なメソッド』も見ようとしたけれど、とても無理だった。
弛緩したシーンがなく、常に緊張感を持ちながら(持たされながら)映像が進行する。しかもそれが、何に由来するか不明な、曖昧な不穏さ(当然その魅力も在るのは理解している)ではなく、極めて明確な、clearな要素によって構築されている。サスペンスを志向する映画が目指すところが強固に完成されている。
出国審査の最終段階で、大使館職員たちとトニーは別室に通される。そこで、いかにも、話の通じない、現地の民兵というような男を相手に、ペルシア語で必死に偽映画の説明をする。散々言葉を費やして、ようやく納得したかのように見えた瞬間、ぼそっと英語で「確認するから待て」と。つまり、男は演技をしていたのだ。
我々は、ここに至るまで、イランの人々の姿を多く見せられていて、そこには、理解できない言語を感情に任せて捲し立てる様子があった。それが伏線として機能し、このシーンが存在する。
しかし、思えばトニーは、最終関門として、アメリカを熟知した人間による訊問があるだろうということは説いていた。そのさらっとした予告も素敵だ。
ラスト。トニーは、別居中の妻と、息子のいる家に着く。車から降りる。窓ガラスから、それを見つめる妻。窓に反射した夫の姿と重なる。車を回り込み、玄関へと向かう。真っ暗な室内から、扉を開けようとする妻の後ろ姿を見る。ドアを開けると、外光がゆっくりと差し込む。
…普通、というか、想像していたのはどちらかの背越しのアップだった。ところが次は、玄関を真横からとらえ、左に夫が居、右から妻が入ってくる、横顔で向かい合う、というものだった。ここは鳥肌がたつ素晴らしいカットだった。そして妻の表情のアップ、が続く。……
このタイトさは、もはや凡百の映画監督を越えている。というか、こういう人いないんじゃないか?この感覚が、シアターで味わえる幸福をひしひしと感じる。
神田古本まつり行った。例によってあまりやる気なし。雨もぽつぽつ降ってきてしまったし。
買ったもの。新宮一成立木康介編『フロイト=ラカン』、丹生谷貴史『ドゥルーズ・映画・フーコー』、白石嘉治・大野英士編『ネオリベ現代生活批判序説』。後の2冊は読んだことあるやつだしね。でも自分の中で参照することが多い本だったので思わず買ってしまったが。
シュレーバー回想録』の単行本が4000いくらかで売っていて買おうかどうか迷ったけれど、Amazonの値段みてやめた。
あとベケットプルースト論とかもあったけど結局やめた。
でも祝日までやってるならまた行こうかとちょっと思う。
OMSBのアルバムやっとちょっと聴く。トラックまじdope。
あとKLOOZのアルバム落とした。うぅ、にやりと笑う音作りにぐっとくる。
モーニング娘。13カラフルキャラクター』やっと聴く。つんく節の名盤。