電脳コイル3〜5』を一気に読んだ。気になったこと。
・大人たち全員で、子どもたちに何かを隠している、という状況。
・ダイチの活躍。彼は、その頭の冴えを、事件解決に持っていこうとはせず、その場をきりぬけること、や、事態をよい方へさしむけることのみに使う。あまり推理しすぎると、ダイチでなくなってしまう。だが、ハラケンとの会話で、事件の根本について考えると、途端に、イサコの背後にある存在へと、直感的に気づく。
・マイコ先生の弟の存在。7年前の事件の関係者。
・イサコの兄はいなくなった、ならば、失踪した由史が兄?
・イサコとヤサコは、(アニメによると、だけど)過去の経験から、記憶や感覚を共有できる。フミエやハラケンも、肝試しで、夕焼けの中、意識がつながりあう。それは、失ったものの「痛み」によって。
・大黒市の郷土史。鹿屋野神社の伝承。夏祭りでの、メガネの異常な排斥は、7年前と関係がある?
・黒客とクラブのつながり。もう共闘関係にある。
《『ひととひとが近しくなるのは、優しさとか思いやりとか、話が合うとかいっしょにいて楽しいとか、そういうことではないんです。ひとがひとと出会うのは、それはただの事故(アクシデント)です。』/アクシデント。/『ひとはひとと出会ってしまって、なすすべなく途方に暮れて、それでつながってゆくんです。』》
《『イサコが鹿屋野神社の祭りにおれらをさそってきた。イサコはやっぱり、おれたちの敵か?』/ぼくは微笑んだ。敵という文字がとてもなつかしかった。おまえなんかきらいだ、と言える自由がそこにはある。それはたしかに生きている世界の話だった。》
・片目が灰色の男は、「部長さん」だっけ?
・オコノギ技術長の、タマコに対する発言。子どもへの警告をそれとなく教唆する。
・7年前の事件、に関するトリックが仕掛けられていたら面白いと思った。でも、タマコの回想で、2回、事故・事件があった、という記述があったような気がする。
・消えてしまうこと、の意味。本来の失踪、と、電脳世界における失踪。
・ナメッチの、料理好き、木滑由史、との関係。

『記号と事件』。フーコーについて。《それから、ブランショの場合と同様、フーコーでも「誰か(on)」の分析が促進されます。つまり三人称ですが、分析の対象にすべきなのはまさにこの三人称だということ。〈誰か〉が語り、〈誰か〉が見て、〈誰か〉が死んでいく。つまり複数の主体が存在するのです。主体とは〈可視的なもの〉の塵のなかを舞う微粒子であり、匿名性のつぶやきのなかに置かれた可動性の場のことです。主体はいつも微分の様相を呈する。主体は誰かが語り、誰かが見る行為の密度のなかで生まれ、そこで消滅していく。このような主体観から、フーコーは「汚名に塗れた人」という奇抜な考え方を導き出してくるのです。(…)これは、いわばジョルジュ・バタイユと正反対の考え方で、汚名に塗れた人を規定するのは悪における過剰ではなく、語源学の観点から見てふつうの人やありふれた人が、隣人の苦情とか警察の出頭命令、あるいは訴訟沙汰といった三面記事的な事情によってふいに日の当たる場所に引き出されたとき、汚名に塗れた人になるという……。つまり権力との対決を強いられ、何かを語り、みずからの姿を人目にさらすことを命じられた人間。だから汚名に塗れた人は、カフカよりもチェーホフと、はるかに強い類縁性をもつことになる。》p218
《なにしろ、いま問題になっているのは、まったく輪郭をもたないとはいえ、けっして抽象的にはならない線です。この線は思考のなかにあるわけでも、物のなかにあるわけでもない。しかし思考が狂気に類するものと対決し、生が死に類するものと対決するところには、かならずこの線があるのです。ヘンリー・ミラーはどんな分子のなかにも線がある、すべての神経線維に、そしてくもの巣を織りなす糸にも線を見出すことができる、と述べています。メルヴィルが『白鯨』で語った、繰り出されたが最後、私たちを引きずり、私たちの首を絞めずにはおかないあの恐るべき鯨の線もそうでしょう。(…)じゅうぶんな眩暈にとらえられた状態で思考し、じゅうぶんな力をもって生きるとき、私たちはかならず危険な線の上に身を置いているはずなのです。》p223知や権力を超えたところにある線、フーコーの最後の題材。
フーコーの主体化。主体への回帰でも、過去の礼賛(ギリシャ)でもない、現在、今、について、今生きている私たちについて(ニーチェの反=現在)。
フーコーの「人間の死」。自らの姿を、神にあわせるのも、従来の人間にあわせるのもできなくなった時、新しい考え方や思想・自然観にあわせることは、今までの人間がなくなること、では。