電脳コイル2』を読み終えた。繊細さが強調されている。

クロード・シモン『フランドルへの道』を読み始める。面白い。読みやすい。がんがん読める。「というより」「というか」「別のいいかたをすれば」、という感じで、言葉が定着しない。イメージも。遠くから書き始められて、対象に近づいていく。

ドゥルーズ『記号と事件 1972−1990年の対話』を読み進める。有機的で合理的な運動、非有機的で非合理的な時間。時間、は結晶体。様々な点を同時に抱える。

第一期の映画は、映像の背後を見なければならなかった。続きの映像を見る必要があった。それが戦争によって死に(「映像の「背後」には強制収容所しか見えず」)、第二期が訪れる。切断されていく。《こうして、戦後になってはじめて、映像の第二の機能がまったく新しい問いにあらわれるようになる。それは、映像の表面に何を見ればいいのか、という問いです。「もはや背後に何を見るかというのではなく、とにかく目に見えるし、ひとつのショット上に展開するものを、はたして直視できるだろうか」と問うこと。》《映像はもはや切断と〈つなぎ〉の一義的順序にしたがって連鎖するのではなく、連鎖を組みかえられ、しかもそれを絶えずやりなおし、それに手直しが加えられるうちに切断を乗りこえて〈つなぎ間違い〉の世界に入っていくのです。映画的身体と映画的俳優にたいうる映像の関係も変化します。身体はダンテ的になった。つまり行動において身体をとらえることがなくなると、身体は姿勢において把握され、姿勢独自の連鎖をおこなうようになるのです》

雨がやむともわっとする。コンビニの結露がすごかった。昼間は、雨が、ざああっと、瞬間、というほど短くないが、まぁ一瞬、降って、やんで、またしばらくたつと、ざああっと、降る、の繰り返しが、しばらく続いていた。