図書館に入って、音楽を切ると、子どもの、こもったような、くすくす、と、きゃはきゃは、が、入り混じったような笑い声が聞こえる。子鬼の笑い声、少し邪悪さや怖さや気味悪さも感じる声。入口から、目の前の事務所というか窓口、いつも人がいないのだけど、を正面に左に曲がってすぐ右の、トイレの方、声のする方にそろりと向かっていく、ちらっとだけ視線をやると、そこのベンチに、子どもが3人、奥の子どもは最初は見えなかったのだけど、道の突き当たりにあるホワイトボードに、張ってある近代美術館の企画展のポスターを見ようとして近づいたら、見えて、彼ら男の子達は、PSPをやっている。ファミレスやマックやモスバーガーや学校や電車の中で、PSPを集団でやっている、と、集団でやっていると思うのは彼らがおそらくモンハンをプレイしていると推測できるから、だから1人づつじゃないとわかる、その様子を見たことは何度かあるけど、笑いながらは初めてかもしれない。

電脳コイル1』を読み終えて、『2』を読み始める。タマコが、メガネを最初に、テストとして、「部長さん」から受け取る。その会社はコイルス。しかし、現在、タマコが大黒市の空間管理局に出向する時、彼女にサッチーを授けるのも「部長さん」。ならば、この人物は、元コイルス現メガマスの人間。
危険なかけひき、や、もととなる時間。繊細で、だからこそ危く、脆い時間。ヤサコたちはその中にいる。それはそのまま電脳的に不安定で脆弱な大黒市にも通ずる。

『絵画の二十世紀』。すこし図式化されてわかりやすすぎる、でも面白い、セザンヌマチスピカソの流れ・比較。感覚するものの違い。セザンヌマチスが捨てたものをピカソは描いた?だって、そこに在るから。在るものは在る、から。