ドゥルーズ=ガタリカフカ マイナー文学のために』読んでる。
《いたるところで、構成された音楽には廃棄の線が斜めにひかれている。それは、意味の通った言語に逃走の線が斜めにひかれているのと同様である。その斜線は、それ自身で語り、もはやフォルムを作られる必要のない、生きた表現のマチエールを解放するためのものである。意味から強奪されたこの言語、意味を征服し、意味の能動的な中和を行っているこの言語は、語のアクセント、変母音の中にのみその方向を見出す。(…)子どもたちは、その意味があいまいにしか予感されていないような語を、それ自体で振動して響くようにさせるためにくり返し自分に言ってきかせるという訓練がきわめてたくみである。(「城」のはじめのところで、学校の子どもたちはとても早くしゃべるので、彼らの言っていることは理解されない。)カフカは、彼が子どものときに、《月末、月末……》という父の言い方を、その言い方を意味を持たない線で展開させるためにどのようにくり返し自分に言ってきかせたかを語っている。》(p37)
《ひとつの言語において言われうることは、別の言語においては言われることができない。》(p43)
《(H・ゴバールの引用によれば)ジョルジュ・デヴルーはモハービ族のインディアン青年たちのケースを分析している。彼らは彼らの性生活について、土語を用いれば非常にたやすく話すが、英語という彼らの伝達言語によっては話すことができない。》(p52)
イディッシュ語は文法のない言語であり、盗まれてきた語、動員され、移住して来た語、《力の関係》を内面化する遊牧的になった語で生きている言語である。それは中高ドイツ語に接ぎ木された言語であり、内側からドイツ語を酷使するので、ドイツ語をなくしてしまわない限り、ドイツ語には翻訳できないような言語である。イディッシュ語は、《感じることによって》のみ、そして心情によってのみ理解されることができる。》(p46)
《偉大で、革命的なのは、マイナーなものだけである。大作家たちのすべての文学を憎むこと。召使と使用人に対するカフカの傾注(プルーストにおいても召使と彼らのことばづかいに対する同様の傾注がある)。もっと興味があるのは、彼に固有の言語が独自のものであり、それが主要な言語であるか、かつてそうであったと仮定して、その言語についてマイナーな使用をする可能性である。自分の言語のなかで異邦人のようであるというのが、カフカの「偉大な水泳選手」の状況である。》(p48)
《自分の言語のなかで、多言語使用をすること、自分の言語についてマイナーまたは強度な使用をすること、(…)》(p49)
《(自分が意味スルモノ・隠喩・ことばの遊びの支配者であることを望む現代の精神分析)》(p50)村上春樹