金井美恵子『夜になっても遊びつづけろ』を読み始める。青春、反体制、否と言い続けること。あとフーテン。けっこう熱く学生運動を擁護してるのも意外(というか弾圧する側を激しく攻撃してる、ってことか)。


金井美恵子『おばさんのディスクール』を読み終えた。装丁がいい。
《(…)徹底して権力の側からしかテレビは作動しないという原理に忠実にふるまわないかぎり、テレビ番組というものは成立しないのである、(…)事件を番組にすりかえて行くものなのであり、(…)》p23
男のロマン…なんつー…p24→原風景…p45
確かに推理小説でまったく犯人探しはしない…p44
「《自然》が《風景》のなかにまぎれることを激しい身ぶりで拒絶するものが、あるいは、《言葉》が《風景》のなかにまぎれてしまうことを拒絶するものが作家というものだ。わたしたちを取りまいている《風景》のなかから《原風景》に視線をすえ、それを語ることの出来る者が批評家と呼ばれることもあるらしい、文学的風景と激しく対立しなければならない。」p47
《それで、擬似マウンティングではなしに、文章を書くということはどういうことなのか、ということが、目下のところ筆者の関心の的であるともいえる。居丈高にならず、へりくだりもせず、文章行為をすること、いわば、言うのは簡単なことなのだが、中性的な不在の中心を持つ文章行為。》p201
ボルヘスを「十何年来の愛読者でもあり、深い影響も受けたし、共感を持ち続けつつ、ひそやかに―あるいは、恥しいくらいあからさまに―愛しつづけて来た作家」とするのは少し意外だった。あんま好きじゃないと思っていたので。


平井玄『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』を読み終えた。
ブレヒト《話にはいろいろあるが/不可解なのがいい/忠告にはいろいろあるが/役に立たないのがいい/(中略)/芸術なら、金にならないの/教師なら、埋葬されるようなの/(「オルゲの希望リスト」より)》p36
グラムシの『獄中ノート』
アドルノ《(…)社会調査アンケートの質問内容や選択カテゴリーの設定の仕方にはすでに調査主体のニーズが溶かし込まれている。だからどんなに精緻な数式を用いた統計学的データ処理が施されたとしても、その結果はなんらかの立場からの社会的プロパガンダであることを免れない―と(『ミニマ・モラリア』より)。》p55カテゴリーは人を殺す。
ネズミとしての闘い方。
永山則夫《後に彼自身が深く後悔したように、四発の銃弾はむしろ下積みといえる四人に向けられるべきではなく、よくは見えない彼の上にのしかかってくる者たち全体へ向けてガムシャラに発射されたものといっていいだろう。大きな意味で「誤射」といえる。しかし…》p77
あらゆるものを使って騒乱を進行?していく。まずは手を動かす。p87
脱落者の存在を前提とした自己資本化、「自分磨き」?p92→自分の商品=企業=工場としての価値を高める。p160
「人間に似たところをすべて身からかなぐり捨ててもなお存続しつづける」「人間に基づいて構想された生き物たちの序列を打ち破ろう」ベンヤミンによるミッキー・マウス
《渋谷の街頭は発光するTV画面と化していく。それは見せられ、歩かされ、消費させられる場所であり、自ら生産する場所ではなかった。》p115
「働かない」すら、新たな市場となる、「多様さ」によって。p139
《彼らが見ていないようで見ている風景、むしろ「殺風景」を彼ら自身がどう突き崩せるのか。》p147
《柔軟性を押しつけるネオリベラル化はナショナリズムと衝突しない、むしろ手を取り合って進む。》p162
ベンヤミンの神的暴力について。最初に読んだ時、想像したのは、大量殺人、猟奇的殺人とかだった。とはいえ、実際の事件ではなくて、おぼろげな、行われていないはずの(行われた事件のつぎはぎによる)イメージの事件だったけど。デリダホロコーストを読み取ったらしい。
そして確かに終末思想的、最終審判的なイメージもあった。
でも、これら三つのイメージの、そのどれも神的暴力と一致しないような、どれでもないような気がする。…って今、思いついたのは地震だ。天災は、確かに近いような気もするが…でも、なんか違う、と思うのは、単純にタブーだからか。じゃあ戦争は、…これも細かく見ていくと違うような。で、この本では、それを、資本主義に対抗しうる別の力、「「他の生産」「他の労働」を実現しようとする者たちが自分自身を律する倫理」としている。
国家による殺傷=forceでなく、個人の、それ自身による力の行使(だと思う)=violence。ヴァイオレスには、無軌道さ、というか、非一定方向さ、がある。フォースは一方的で、上から下へのイメージがある(スターウォーズの印象があるが、あれは、どうだろう)。つまり、個人でなくちゃいけない、いや、別に1人じゃなきゃいけないのでなく、なんというか、徹底したバラバラさが求められてて、一纏めにできないという意味での「個人」。別に解け出そうがかまわない個人だけど、ただバラバラさはあったほうがいい。

中井英夫『虚無への供物』を読み終えた。過剰な東京小説。新宿とか、永田町とか、下町とか、っていうより、目白、太子堂三宿三軒茶屋…の印象が強い。
あとは、偶然だけど、神的暴力にも関係がある?まぁそう読み解いてそうな気もする(戦争、大量殺人、推理小説…的なつながりから。あと、記号的に名付けられる人々とか…個々の命が軽んじられる、とか)。
にしても、やはり後世への影響大な作品だと思う。探偵たちや読者にとって《(…)事件が常に現実と非現実との二重映しになって進行し、(…)》(p414)そして犯人もまた、自らを食いつくそうとする化け物に勝つため、イメージ=物語=非現実(それは、不動信仰であったり、科学的な植物の性質であったり、アイヌの言い伝えであったり、シャンソンであったり、歌舞伎であったり、探偵小説推理小説であったり、色にまつわるものであったり、する…ように思われたが、実際は、それらよりもっとも古典的なイメージ、聖書だった…)を使い現実を意味不明から悲劇へと変えようとする。
誰かが犯人になることは、必ずしも犯人が何かをやったことにはならない…むしろそれは読みとき方、考え方だ。犯人は、犯人としてふるまい在り続けることで、人間であろうとする(出来事と人間、という考え方を保とうとする、の方がいいかも。つまり出来事を、わけのわからぬ人間すら内部にとりくむ化け物、と、絶対に、しないために。絶対化の拒否?)。
《一九五五年の現実がどれほどきちがいじみていようと、それを容認しなければ、代りにおれが犯人になるほかはない状況が、そこには作られていた。》p604
非理解と戦う、ために。それは起こってしまうことを無理矢理理解しないというか、非理解として相対す、というか。戦い続けるための手段?
おそらく解説が書かれたのは1974年以前だったと思われるが、「(…)新しい悪の創造を作家でなく現実の事件の方がやってしまうという認識に賛同する者ではない」と書いてあり、…まぁ確かにそうかもしれないけど(いやそんなことなくて、事件を起こすのも作家も見る側読む側も、基本みな凡庸という気もする)、現実に超えられるより先に、という感覚で、小説を書くのも、…重要というか…。とりあえず「新しさ」とか「悪」について考えてないとこの種の断定自体が紋切になりがち。