『放送禁止 劇場版 密着68日 復讐執行人』を池袋で見た。「デスリミット」との関係性!すごいいい。「放送禁止」は、見終わって裏に隠された真実を知った後、もう一度見ると、1回目とは違った風に見ることができる、受け止めることができる、ところがおもしろいんだけど、「デスリミット」と劇場版は、一部、その「1回目と2回目」、の関係になっている。
HI8の映像が、怖くてよかった。あと外から撮った、煙が上がってるシーン。
飛び降りの映像。いいかんじのあっけなさで、スピードもあってよい。もうちょっと下まで映して欲しかったけど。
放送禁止シリーズのヒロイン(って言っていいかどうかわからんけど)は、みな、普通かわいい。似てる感じがするんだよなー誰かの好みか?こう、自然な、髪の長さもボブくらいで、整った感じの美人、…
シエロ、七川ノラム、までは、見る前からわかってたけど…その他の名前系の隠されたやつはわからんかった。
カメラが増えるのが、いいのかわるいのか(これと同じ意味で、1の、急にカットが変わるのも、最初見た時は違和感を感じた。劇場版でも、最後のシーンでカットが細かく切り替わるところがあるんだけど、そこは、変な感じがする。カメラが動いて、やっと一つながりの場面として撮った時、安堵感があった)…いい、とするなら、フェイクの部分がドキュメンタリーを侵食する、ととらえるべきだし(とはいえ、役者の演技や、ときたまのせりふの大仰さ、がすでに侵食してる、と言えるかもしれないけど…ただこれを同じ次元でとらえちゃいけないような気もする)、だめ、とするなら、きちんとカメラが増えたところを説明すべき、だと思うが…しかし、そうなってくると、そもそも編集したのは誰か、とか、インサートとってるのは誰、ということにもこだわらないといけなくなる。それはそれでいいのかもしれないが。フェイクドキュメンタリー、でありながら、フィクション(カメラの増加、編集、大げさなセリフ、音声のとられ方…)がところどころに侵食している、と考える、ことにする。しかし、そこで、ご都合な部分(ご都合のフィクション。物語や画面が、(たとえフェイクでも原則として従っているはずの)ドキュメンタリーの原理(本気(はそもそも存在しないか…)であれ、パロディ(こっちしかないか)であれ)では、進めなくなってしまう、つまり脚本を(つまり事前にかんがえてあるものを)、その通りに作り上げるために、(ある種しかたなく)導入する、非ドキュメンタリー的要素)もある、というのも、加える。そこをどうやって見究めるか?観客の良心で補完すべきか、原理主義の立場に立つべきか…しかし後者なら、もうこの手の作品は認めてはいけない、と思う。とはいえ、フェイク性を楽しむよりも、画面に何が映っているか(撮られるべきもの、撮られてはいけないもの、本来撮れるはずない(と思ってしまう)もの、が映っているか)、に純粋にこだわるべき、その点において原理主義になるべき。だから、これは、ドキュメンタリーでもなければ、テレビの特番でもなく、映画、としてその地平において、見て、考える。

ナボコフの一ダース』を読み終えた。
ナボコフの小説の、室内や列車の場面の、そこに登場する、人物の身振りや装飾や自然・人工の風景(部屋における窓の外、列車における車窓(流れていく風景))、そして、語り手の感覚がとらえるもの(前述に登場するものをすべて、時にはそのまま、時にはイメージを極端に(繊細に)膨らませたり歪ませたり形を整えたり崩したり)を、描く時の、優しさや美しさやそこに物が在る感じ(存在感?)、豊かで繊細でつややかな、文章の、すばらしさ。
「ランス」。確かに、冒頭で、ナボコフが罵倒するような、SFではない。前半はほとんど(というか小説の大部分、と言ってもいい)、ランスが宇宙へ旅立った後の、両親を描いているし、ランスの旅も、その両親の眼に映った(無理矢理映した)姿でしか描かれない。その後の、ランスの心情も、挿入される(おそらく)ナボコフ自身の夢や、ナボコフの想像(という形での、少なくともランス自身の、ではない)でのランスの心情が描かれるばかりで、しかも、そのあとに宇宙のエピソードは何もなく唐突にランスが帰還する。そして終わりは、ランスの不穏な変化、そいて、エレベーターの描写で終わる。最後のエレベーターを、ある種のずらし、ととらえてもいいのだけれど、それはあまりに貧困で矮小化にすぎない、という感じがするし、だからと言って、下降するエレベーター、や乗客たち、に何か意味(隠喩?)を持たせている、と考えるのも、うすぎたない。
エレベーターの乗客もそうだし、「ある怪物双生児の生涯の数場面」なんかももろにそうだし、「城、雲、湖」の同じ旅をする人物の中にも、「一族団欒の図、一九四五年」のパーティーにも登場したと思うけど、名前が似ている(もしくは同じ名前)で見た目のイメージもなんとなく似通っている2人組(男男、もしくは女女)が登場し、それがどっちかどっちなのか、判断できない、というくだりが、あらわれる。
「「いつかアレッポで…」」の妻、や、「一族団欒の図、一九四五年」の同姓同名の人物、もそうだが、いるのかいないのかわからない、その存在があまりに曖昧な人間が、登場する。
《その灰色の朝からもう二十年になるが、その時のことはそれからあとのいろいろな事件よりはっきり心に残っている。ぼくは映画のフィルムでも見るように何遍となくそのときのことを思い浮かべる。まるで手品師が何遍も繰り返して同じ芸をやってみるように、失敗に終わった家出事件のあらゆる段階を、あらゆる事情を、あらゆる雑多なディテールを、ぼくは何遍となく思い浮かべる―最初の身震いも、あの門も、あのヤギも、覚つかない足で踏んで行った滑りやすい斜面も。》p230
《これまで幾度も気がついたことがあるが、自分の過去にあった何か大事なことを小説中の人物のことにして書くと、せっかくの大事な記憶が不自然な世界へふいに放りこまれたため、だんだん痩せて衰えてしまう。心の中にはやはり残っているものの、これは自分だけのものという暖か味もなくなり、思い出しても感動しなくなり、ぼくだけの過去だったときは作家根性にかき廻されることもなくちゃんとしていたのが、だんだん過去のぼくよりも、ぼくの書く小説の方へくっついてしまう。思い出に残る家屋がもう何軒となく、まるで昔の無声映画にあったように音もなく崩れてしまった。幼いころフランス語を教わった家庭教師も、一度ある小説の中のある男の子に貸してやったら、ぼくとは無関係な幼年時代の描写に巻きこまれて、どんどん影がうすれて行く。人間としてのぼくは作家としてのぼくに反逆する。》p234
これら2つの引用から。記憶、の細部や要素、人物や風景やもの、を(くりかえし)思い出すことにより、そのすばらしさ(というか、記憶は、それだけで、すでにすばらしいのか)を、再び、何度でも、体験する。(再)美化するのではない。ただ、記憶するたびにできる(それはつまり発見する、とほぼ同義である(もちろんずれている部分もある。そのずれもまたすばらしい)が、)、(『ロリータ』のあとがきで言うところの)記憶のくぼみや、あとは愛らしいキズやらなんやらを愛でる(なでたりなめたりする?かいだりも)、それが記憶を再び生きる、ことである、というだけ。
ウルフもそうだけど、子どもの目から見た、ある種肥大化した(例えば、自分が見たいもの、イメージを、見、感じとっている)情景・風景・場面、を描く。
還元不可能の豊かな細部を描くこと。