蓮實重彦『映画の神話学』を読みながら考えた。『ワイルドバンチ』について。追う者と追われる者。この場合、追う者である、サーストンたちも、後半から追われる者となる。
西部劇の舞台となるアメリカの荒野は、一挙に橋から端まで見渡せる場所で、だからこそ、追跡と逃亡が一つの画面に収まることができる。しかし、現代の逃亡劇はどうだろう。個々のシーンは別にしても、本質的には、分断されてしまっているような気がする。例えばジェイソン・ボーンシリーズとか。監視カメラの映像が、追跡者の代わりとなり、実際の追跡者はボーンと違う空間にいざるをえない。特権性、をボーンは逆転していく。
途中でパイクの仲間のあのおっさんを、サーストンたちが狙撃する、が、あれはなにか。サーストンたちの存在を、パイクたちが気づくきっかけになっていた。こそこそ隠れて撃っていたのではなかった。追跡者が、逃亡者の地平に混在しようとした?

中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』を読み終える。現実、とイメージ(写真における、映画における、現代美術における)の関係。イメージが、現実を模倣し(俳優が、何かをまねすることで演技するがごとく)、そのイメージを今度は現実(およびそこに属する人たち=つーか全員やら(政治)体制やら)が模倣する、という流れで、どんどん、現実からはなれていく(今ここ(ドゥルーズフーコー)、からどこか(例えば憧憬の対象としての「昔」や「田舎」)へ)。そうではなくて、イメージにおいて重要なのは、現実とのつながりだ。俳優は、誰か・何かのまねをするのでなく「一回限りの生を生きる」こと、その人間(俳優)が、一人の人間として、カメラの前で生ききること、であり、模倣するものとしての作品(そして作品―作家―観客という関係)を断ち切ること。作家―作品の特権性の放棄。普遍性ではなく個別性(例えば、いつ(日付)、どこ(場所)で行われている、のか、という日付主義としてのジャーナリズム)。
目的を放棄せよ、と言いながら、目的がなければだめ、と言ったり、作家性を拒否することと個別性をうけいれることは矛盾しないのか、と思ったりした。
ベンヤミンの楽観的発言。彼自身、模倣にしかならない新しい文学を否定していたが、例えば、新聞の読者投書欄が、そうならない可能性を考えなかったんだろうか?

ZAZEN BOYSを聴いていて、GEISHA GIRLSを思い出した。《野球場の真上だけ/夜空が明るいね/そっと開くアルバムの中の/夏の日みたいに》(「少年」)と《波打ち際に立ってたね/空の向こう 赤色/海岸線で待ってたね/雨上がりの夕方》(「Memories」)…ニュアンスしか似てないけど。
しかし(GEISYA GIRLSに松本人志作詞のものはほとんどないけど)、『ZAZEN BOYS4』の詞が、松本人志っぽい、様な気がする。「北陸かカンボジアあたりの地方」という、雑で唐突な固有名詞の使い方、「半分以上、泣いてたね」という、基準の分からない程度の表現そして伝聞、行為と行為が話者の中でしか分からない関係性で結びつく感じ。
《あたいがおいちゃんに街で声をかけた時…/…いつものおいちゃんだと思ったよ…/あんたが…あたいにおおいかぶさってきた時…/…あたいやったと思ったよ…》(「おいちゃん」)

下北。こせきこうじ先生、おそらく本人が、駅前の路上で、色紙を売っていた。なぜ?そしてヴィレッジヴァンガードは相変わらず混んでいる。いるといたたまれなくなる。自意識過剰すぎる。あと、いたるところの神社がお祭りの季節。今日だけでお神輿を2個見た、1個は動いてなかったけど。