廣瀬純『蜂起とともに愛がはじまる 思想/政治のための32章』読み終えた。おもしろかった/《存在者たちを十把一絡げにひとつのフレームのなかに投げ込むパノラマショットのなかに「汝、殺すことなかれ」の声が響くことはけっしてない。》(p139)/《(…)それは彼の表現がそれ単体で明示する価値ではなく、その表現から印象によって新たに引き出される価値なのだ。》(p158)/無資格で、しかしすべての事柄について、自らの知力・身体を総動員して考え語ることが知性である。しかしそれはまた、ネオリベラリズムが求める力でもある。そのある種の「模倣」を越えるための、叛乱の叛乱、絶対的外部、思考し得ぬものへの思考…とは、過剰に問いを生産し続けること。警官が「まるで理解できない」と思わず口走ってしまうような、解にたどり着かない問い。問題を生き続ける(p205)。それは《「黙る」というストライキ》(p61)や、《(…)複数の持続を同時に生きること》(p64)であるかもしれない。そしてそれらは当然疲れる。しかしこの疲れと共に歩まねばならない(p207)。/《(…)歴史や人生がそれらの映像の滑らかな連なりとしてあるとすれば、映画作りとは、そのうちの幾つかの映像を歴史や人生の本流からは少し外れた場に引き止め滞留させ、そこで反復することに他ならないと言えるだろう》(p86)し、それはつまり直接性ではなく、スクリーン、《遮蔽幕による切断》(p133)、《第三者の一挙手一投足》(p134)、《他の輝き》(p115)が必要ということで、すなわちそれが《フィクションの力》(p144)である/風を送るゼピュロスたちがいなければ、ヴィーナスの待ち構える春の女神のマントははためかなかった(p160)/《(…)「媒介」によって他の力に呼びかけつつおのれ自身は「消え去っていく」ものでなければならない(…)》(p170)/で、笙野頼子『小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神』(なげぇ…)読み始めてる/やっぱり試聴と違うって思ってしまうので良いイヤホンでも買おうかな/