M・ナイト・シャマランアフター・アース』見た。

これは、…大傑作ではないだろうか。どういう映画かと言えば、ある幾つかのオブセッションに徹底的にとりつかれている作品である。
つまり、見える/見えない、見る/見られる、の交換・反転・越境。これに尽きる。開始直後でいきなりの「幽霊化」(ゴースティング)というぶっこみ、あまりにシンプル。「見ている」と繰り返し息子に語りかける父親というのが(そして決して「眠らないように」する)、物語自体を離れて強くイメージを残す。小さなジオラマの透明なドームの内側から姉の死を見届けるキタイ。遠隔視。視覚でとらえる前に生物に反応するスーツ。枚挙に暇なし。
回想での、画面に息を吹きかけ、ケーキのろうそくを消す、というくだりに完全にやられてしまう。その後当然のごとく、音声が途切れた状態の、息子の映像への呼びかけが、成し遂げられてしまう。この不可能さの乗り越え方の大胆さ。『デジャヴ』じゃないか、はんぱじゃない。
目指すところが狂っている、破綻している。ので、おかしくみえるのだけれど、この作品はともかくストレートで、直球、けっしてひねくれてはいない。
宇宙船の、まるで生物の体内のような造形(あからさまに骨のようなデザインの柱)。壊れて開け閉めを繰り返す半透明の扉。
作品尺100分という素晴らしさ。
さらに、4K解像度カメラで撮られた、引きの風景の中で、木々の葉や河原の石ひとつひとつがはっきり形を持って見ることが出来るという、ありえないやばさ。
とりあえず激褒めしたい。
言いたかないけど、シャマランは、また1つ高みに登っている。"The Next Spielberg"とでもなんでも言ったらいい。正統派フォロワーより、スピルバーグのある種の執着・異常さを受け継いでいる。
円谷英明『ウルトラマンが泣いている 円谷プロの失敗』買って読み終えて、恐怖にふるえた。まぁお家騒動というか、一族の争いみたいなものも十分おもしろかった(っていっちゃあ失礼なんだけど)。のだけれど、印象に残ったのは、優秀な制作・技術の人材を放出し、フリーランスに頼った番組作りを繰り返した結果、うまいいかなかった、というところ。この作者が、おそらく思い入れもあるのだろうけど、初代マンとセブンを神格化して、それ以降は失敗だった、と言いまくっているのも、どうかとは思うけど。自分はグレートやパワード、好きだったし。