ヴァージニア・ウルフ『波』を読んでいると、息が苦しくなるような感覚、息継ぎができないというかしてはいけない素もぐりをしているような感じさえする。途切れさせてはいけない、意識を、文字へと放たれる視線を。だから、入口は、入るのもおっくうでさえあるんだけど、進んでいくと、止めてはいけない気がしてくる、っていうか、止めたらまた苦しい入口が待っているから、というのがある。
ウルフの小説には、自分、という存在を信じていない、自分は他人と一緒で、みんな一つの存在だ、と考えている人物が登場した(ような気がする)。『波』ではバーナドがそれだ。自我、を信じていない、という感じ。というかウルフの小説では、そもそも自我を否定していて、一人の人物の思考が、別に、その人の思考として存在し描かれているんだけど同時に、周囲の人々の思考、風景、と溶け合っている。思考が風景や人々を、視覚的にも(そして他の感覚的にも)、その内部も、変化させてしまって、同時に今度は他者の思考やふるまい、風景やその変化が、話者=自分の思考を変化させてしまう。
それにしても『波』の読みにくい。一つ一つの文章が、次へとつなげる気が毛頭なく、ただその一文として在り続け、次のもそう、って感じだ。散文的っぽくない…、しかし、イメージで通じ合う文同士、や、語り手の主張・思考が奔流のようにあふれ出てきたりもする、散文性も確かにある。『波』は、登場人物の語りのみでほぼ形成されているので、いくらでも散文から離れられるし、まぁ小説だから、近づけることもできる。途中で挟まる誰の視点ともいえない、人称不在の風景描写が、『灯台へ』の真ん中の家が朽ち果てていくくだりを思い出し、すばらしい。

西尾維新クビキリサイクル』を古本屋で買った。