北里義之『サウンド・アナトミア 高柳昌行の探究と音響の起源』抜き書き。
p21《渋谷ジァンジァンで自主公演されていた定例コンサートのMCで、高柳が「これを『音楽』というのかどうか分かりませんが」と言ったのをよく覚えているが、》
p25《中途半端に過剰なものを、人は喜んで消費するが、真に過剰なものは、人を畏怖させるからだ。》
p33清水俊彦《(…)どれほど分析しても結局は分析を逃れ、分析を限りなく遅らせるものとしてのノイズ(…)》
p36《言うまでもなくこれは、「聴くこと」そのものの露出であり、》
p39《高柳のいうメディアとしての楽器とは、環境にインタラクティヴに作用するもののことをいう。》
p41《ここで注意したいのは、投射音楽の成立事情であり、まず最初に、表出としての即興演奏があり、しかる後に跡づけの理論が(つねにどこか不備のまま、不完全のままで)模索されていったという事実(…)》
p44高柳の「切れている」にもかかわらず「絶たれているものではない」即興演奏=《境界づけながら越境する(あるいは、寸止めしながら突き抜ける)といったこのあり方》
p46キアスム=異質なテクストの相互乗り入れ。清水と高柳のテクスト。
p48《(…)『汎音楽論集』の頁にノンブルが打たれていない理由を、ずっとおしはかりかねているのだが、もしかするとこの奇抜な造本は、ずべての言葉がひとつのことを言っているという悪夢的なメッセージなのかも知れない。書物の終わりまで、次々とページを繰っていたはずなのに、ふと気がつくと、私たちは、実はずっと最初の頁を開き続けていただけだったのかも知れない。)》ボルヘス的書物。
p49《(…)「必然性を持たない方向性」、あるいは「偶然のように、奇蹟のように獲得される方向性」(…)》
p57柄谷行人埴谷雄高追悼。《しかし、その意味では、埴谷は転向したと同時に、転向しなかった。つまり、彼は共産主義を構成的理念として放棄したが、統制的理念として保持したのである。》
p58《腕をのばして拡散してゆく渦状星雲と釣りあうような一冊の書物、太古の闇と宇宙の涯から涯へ吹く風が触れあうところに坐っている漆黒の存在、これらSF的なまでに広大な時空間を往来する詩的形象は、実現されるべき理念を未来の無限遠点へと放り投げるための、ほとんど「妄想」というべき文学装置だったのだ。》
p59《(…)無垢で、全能のまなざし》=《架空凝視》を《「来たるべきジャズ」》へ向ける。
p65高柳のエッセイより。《広範囲な種類の音楽を聴き始めた或る時、一種の音が自分の内部に飛び込み、根を張り出し、それがジャズであった場合、行く先はあまり光に満ちたものとは言い難い。どころか、むしろ最も混沌とした、光と影の屈折した部分の多い地に踏み込んだ事になる。》
p75《問題は「人間自体=演奏主体は何も変わっていない」という高柳の認識である。ギターをこのように演奏する限りにおいて、音楽構造を破壊しようが、伝統楽器を異化しようが、決して問われることのないあるものがある。それがここに言われる「演奏主体」、すなわち視線がみずからのまなざしをまなざす不可能性であり、モダンの起源なのである。》
p78《(…)有限と無限を、あるいは極小と極大を、ダイレクトに媒介してしまうような魔術的運動(…)》
p99大友良英の言葉?《(「なるべく音から意味を発見しないように、あるいは音の背景にあるまとまった何かを見つけてしまわないように、脳内音響識別認識ソフトの駆動を阻止したりコントロールしたりする訓練」)》
p101《(…)「音」と「音楽」の間の薄暗い領域(…)》
p108《(…)録音機器や家電製品を“楽器”として使用/誤用することで、リスニング・ルームのような情報環境を、双方向的なものに変質させたのではあるまいか?》
p112《(「pro-gram 先に、あらかじめ書かれた-言葉」という語源的意味は、まさに「預言」に通じるだろう)》
p119《フーコーの「考古学」は、一方的に対象をまなざす古典主義時代の知のスタイルとは違って、まなざしを構成する主体が同時に客体にもなるような近代の知のスタイルのなかで起こった出来事を分析するには、このまなざしそのものをまなざす必要があるところから創造された概念だということである。》
p125フーコー臨床医学の誕生』《病院の領域とは、病理的事実が、事件としての独自性において、しかもそれをとり囲む系列の中において現れる領域である。少し前まで、家庭というものがなお、真理が何の変化をこうむることもなく、姿をあらわす自然の場を形成していた。ところが今や、この場には人を惑わす二つの力がある、とされてしまった。その一つは、家庭におかれると、この病気を乱してしまうような看病や生活様式や方針によって、病気が隠されるおそれがある。他の一つは、物理的条件が独自なものであるから、その中におかれた病気は、他の病気と比較されえないものになる、というのである。医学的知識が頻度を基準として定義されるようになってからは、必要とされるのは自然な環境ではなく、ある中立的な領域である。つまり、比較可能であるために、あらゆる部分が同質である領域、また選択や排除の原理もなく、あらゆる病理的事件の携帯に対して開かれた領域である。そこではすべてが可能でなくてはならないし、しかも同じやりかたで可能でなくてはならない。》
p137《「死の領域」という表現はいたずらに刺激的だが、例えば、仲正昌樹がその著書『デリダの遺書』(双風舎、二〇〇五年十月)で、そもそもエクリチュールというものが、死後の生を生前に語るような一種の臨死体験であることを述べているように、録音メディアに刻印された演奏の痕跡を聴き分けるグラマトロジーの実践もまた、一種の臨死体験なのである。》
p143フーコー《死の高みからこそ、ひとは生体内の依存関係や病理的な系列を見て分析することができるのだ。長い間、死は生命が消え行く闇であり、病そのものもそこで混乱してしまうところであったが、これからは、死は偉大な照明能力を賦与され、この力によって生体の空間と病いの時間とが、同時に支配され、明るみに持ち来らされるのである。(…)死とは大いなる分析者であって、もろもろのむすびつきをほどいてみせ、解体のきびしさの中で、発生というものの驚異をあざやかに照らし出す。しかもこの解体decompositionということばを、その意味の重さの中で、よろめかせておかねばならない。/ビシャは死の概念を相対化し、それを分割不能の、決定的な、恢復不可能な事件のようにみえていた絶対的な地位から、これを失墜させた。彼は、死を気化させ、こまかな死、部分的な死、進行的な死、死そのもののかなたでやっと終結するようなゆっくりした死、などという形で死を生の中に配分したのである。》
p145フーコー《観察するまなざしとは、介入することをさしひかえるものである。それは口をきかず、身ぶりもしない。観察はものを、あるがままに置く。観察にとっては、呈示されるものの中に、何も隠れたものはない。観察に対応するものは決して不可視的なものではない。(…)臨床医学者の研究対象(テマティク)においては、まなざしの純粋性は、じっと耳を傾けることを可能ならしめる或種の沈黙と結びついている。諸体系の饒舌な論述(ディスクール)は停止しなくてはならない。》
p148フーコー《一瞥というものは、一つの場の上を飛んで行きはしない。それは一点に集中する。その点とは中心的、または決定的な点たる特権を持つ。まなざしには際限なく抑揚がつくが、一瞥はまっすぐ進む。それはものを選びとり、それが一気に描く線は、一瞬にして本質的なものを分離する。したがって、それは見えるものを超えて行く。》激しく、言語にも、感覚的なものの直接的な形態にも、とめることのできない「一瞥」。
p192《屍体を生体ととり違え、生体を屍体ととり違え、やがて屍体と生体は往還を始める。街をさまよい歩くものたちのなかの、いったい誰がゾンビなのか、誰が人間なのか、誰がゾンビのふりをした人間なのか、誰が人間のふりをいたゾンビなのか、まったく分からなくなる。すれ違うそれぞれ異なった風に顔のないものたち。夜の繁華街を夢遊病者のようにさまよい歩くベンヤミンのフラヌール。生と死の交歓。》
p193ジャック・デリダのグラマトロジーデリダの議論はさらに進んで、私たちがライヴと思っている演奏でさえ、つねにすでにこうした音盤による耳の再構成に侵犯されているだけでなく、むしろ実はそこから生まれてきた概念であることを論じ、レコードというメディアが、生の演奏をただ記録に止めるだけにあるものでも、また生の演奏を聴くことができなかった代補として存在するようなものでもないことを証明した。》
p195《生の演奏ではない、レコードという死んだ演奏において、その死が切り開く明るみのなかで、私たちは初めて語るべき個性を獲得しているのである。》
p197《指先の感覚を最大限に鋭敏にして、自他の境界に触れることによって、彼らが感じているものは、他者としての彼ら自身である。》
p204フーコー《問題はもはや或る知覚の部分と意味論的要素をむすびつけることではない。知覚されたものが、その独自性ゆえに、ことばの形から逃げてしまい、表現されえないあまりに、ついには知覚されえぬものとなる恐れがある、そうした領域に向けて、言語を完全に転換させることが問題なのである。そのため発見するということは、sる混乱の下にある本質的な一貫性を読みとるということではなくなり、言葉の波がしらの泡の線をもう少し先まで押しすすめ、知覚の明るみに対してまだ開かれてはいるものの、すでに日常のことばに対しては開かれていない、かの砂浜の領域へと、波がしらの線を、食いこませることとなる。まなざしが、もはやことばを持ちあわせない、かの薄明の中に、言語を導入するわけである。苦しい、こまかい仕事である。》息の詰まる美しい文。
p206-207東浩紀ポストモダンにおいては、無数の小さい物語が存在するだけ=原理主義ではなくなるしかない。《(…)どちらが正しいのかというメタ・レヴェルへの遡行が禁じられ、解釈者はその時々の立場や好みに従い、それぞれ好きな方を選べばいい(…)》
p207《伝統的な楽器を別様に響かせ、レコードだけ聴いていたのでは、いったい何の楽器を演奏しているのやら、そもそも音を出しているのかどうかさえまったく分からない演奏があったり、》
p230《(あるいは「演奏する」と「操作する」ふたつの身体への分裂)》
p234《(…)まさしくジャズのドミナント・ヒストリーからみずからを「切/断」していきながら、その「切/断」の行為の連鎖そのものが、固有の音楽史を形成していく(…)》
p242《(…)異質なノイズが、(…)異質なままに孤立したり、散在することを可能にするような空間性(…)》
p244《(…)言葉によって領略できない物質的な異物感を持ち、演奏者と絶対的な近さにあるような響き。》