橋本忍『複眼の映像―私と黒澤明』を読んだ。橋本忍は、『羅生門』の共同脚本でプロの脚本家として歩き始め、その後も『生きる』『七人の侍』にも深く携わり(だからこそ、というか、この三作に関する記述はおもしろい…特に、『羅生門』が芥川の『羅生門』と『藪の中』が合わさったものとして作られてたきっかけ、とか。ここで橋本忍は、最初『藪の中』だけで作った脚本の短さを黒澤明に指摘されて、ほとんど直感的に、『羅生門』を加えることを提案し、そんな言葉が出て来たのはなぜか、自問自答していく過程で、新たな形の『雌雄』=映画『羅生門』を模索する…そして作った脚本は、図らずも黒澤明との距離を隔てたやりとりによって完成形になってゆく。すでにここから、橋本と黒澤の複眼による脚本制作が始まっている。そしてその後の橋本と黒澤と「小國旦那」の三人による共同脚本が作られていく過程(そこにおけるそれぞれの位置)が描かれている所もおもしろい)、なので当然、黒澤明とは強い結び付きがあり、読んでいると、橋本が何度も、仕事が終わるたび(具体的には『七人の侍』以降)黒澤組との仕事はこれで最後だ、と(まるで忌まわしき因縁のように)思うのは、信じられなくて、因縁は、どうやっても切ることはできない(できなかった)のは、おそらく著者にもわかっていたんじゃないかと思った。あと、『七人の侍』以降に共同脚本として関わった作品の、いわゆる合宿の描写は、前述三作品の、緊迫感があふれたり、丁丁発止のやりとりがあったりする様子がほとんどなく、それ以外の、本筋(作品づくり)から外れたエピソード(美味しんぼ的美味い物自慢大会など)の方が書き込まれていて、そこであらわされるそれぞれの人物像もよかった。あとは、黒澤明の完全主義、徹底的な合理主義(人物の尋常じゃない彫り方)(しかしそれでいて曲者だらけの脚本家たちと、不思議と仕事ができていく…関わる脚本家が、実は元々の映画脚本家ではなかったりする、という所に理由があるような気もするが)、「異常」で「異様」な姿も見えてくる。とりあえず『七人の侍』が見たくなってきた。あと『日本剣豪列伝』が読みたい。