ホフマンスタール『チャンドス卿の手紙 他十篇』を読んでる。
《過去という洞窟のうちへひとつの瞬間が侵入すると、過去を形づくる暗く硬直した無数の瞬間のうちから、過去の光が、なにひとつ欠けることのない姿でほとばしりでる。かつて存在しなかったもの、かつて現われたことのないものが、いまこのとき存在し、いまこのとき姿を現わす。それは現在であり、現在以上のものだ。かつて共在しなかったものが、いまや同時に存在し、併存し、灼熱と光輝と生命とを融けあわす。魂の風景は星空の風景よりも不可思議なものだ。そこではたんに銀河のみが数限りない星であるばかりでなく、陰になったさまざまの裂け目が、その暗黒の部分が、いくえにも重なった生なのであり、密集がすぎて光をうしない、充溢がすぎて窒息してしまった生なのだ。そして生のもつれあうこの深淵をくまなく照らしだし、解き放ち、その深淵のうちから銀河を形づくりうるものこそ、ひとつの瞬間だ。》p153
《(…)奥深い、きわめて秘やかなぼくらの内面の状態というものはすべて、風景や季節、大気の状態や風のそよぎとじつに不可解きわまりなく絡みあっているのではないだろうか。(…)自分自身を見いだそうとするのなら、内面へおりてゆく必要はないのだ。自分自身は外部に見いだすことができる、外部に。(…)ぼくらの自我をぼくらは所有しているわけではない。自我は外から吹き寄せてくる。そして、かすかな風のそよぎにのってぼくらに戻ってくるのだ。(…)なにはともあれ、なにかが戻ってくるというわけだ。そしてこのなにかはぼくらの内部で別のものと出会う。ぼくらは鳩小屋以上のものではありはしない。》p129-130
《(…)……そのあいだ、ほんの一瞬でも、自分の外へ出たいと願わないときはなかったと思うわ。》p164
《わたしが枯枝を踏みつけると、ヒュムニス、そのあわれな物がわたしのなかへはいってくるのよ。美しい菫や薔薇のように、眼を通ってそれがわたしのなかへはいってきて、わたしを奴隷にしてしまう。》p166
《あの娘たちは、男たちと神々の前で踊りながら、言いようのないくらい仕合わせで、お互いどうしのことはもう何もわからず、みんなが一体になっていて、しかもだれもがひとりきりなの。》p167
《例をあげて言うなら、いかにも他愛のないものだが、たとえば泉で水を飲むことだ。知ってのとおりぼくは子供の頃ほとんどずっと(十を越えてからは夏のあいだだけになったが)上オーストリアの田舎ですごした。だが、カッセルで冬の学期をおくっているとき、あるいはその他両親といっしょに行った先々で、新鮮な水を飲むたびに―(…)ぼくはふたたびあの上オーストリアに、ゲープハルツシュテッテンに、あの古い泉のそばにいた。その泉のことを思った、というのではない。そこにいたのだ。(…)水を飲んだ瞬間、魔法にでもかかったようにゲープハルツシュテッテンの古い噴泉のもとへ立ち戻りえたのと同じく、ウルグアイでも広東でも、またさいごにはあの南の島々においても、なにかしらあるものが魂にふれるたび、ぼくはつねにドイツにいたのだ。(…)いやそれどころか、こうしたものに襲われるとき、ぼくはいつもドイツにいたのだ。すべてはあるがまま、そのとおりなのだし、夢幻のかげなど微塵もありはしない。》p180-182
《現実というよりはむしろ予感だった。たとえていえば、きわめて霊的な、存在の本質にかかわってリアルな、とらえがたいなにかが吹き寄せてくるような感じだった。あれは、精神のきわみから発する反映―ひとつの体験を言おうとするとき言葉はなんと無力なものか、どんな場合であれ肉体の快楽よりは強く、しかも、かなえられることを確信している子供の素朴な祈りよりは純粋かつ微妙な輪郭をもった、明々白々な内面の危機をあらわそうとするとき―、あれは、入り混じり絡みあう数限りない生の可能性の反映だった。(…)個々の出来事、きっかけは外からやってきた。ぼくはただピアノの鍵盤でしかなく、弾くのは見も知らぬ手だ。》p183-184
内部は、外部(自然や他者)以上のものではない。だから、内部=自我は特別で特権的なものではない。それらは分けられるものではなく、だから相互に入り混じりあい絡みあい、影響(響き)を与えあい、互いに形づくりあう。そこで示されるもの(記憶や体験?感情や感覚?)、が、示されるのはおそらく誰でも(いつでもどこでも)よく、そこにまるでひとつの空洞のように立ち(在り)、たまたまそれという名の風が通り過ぎるだけ。示されるものは、その時にしかないことであり、世界中どこででも起こりうることである。だから奇跡的な出会いであると同時に、何度も繰り返されたものである。ここ(世界)には内部=主/外部=従、というかたちも、またその逆もない。だから等価値であり、というか、価値とか自体がないのか?また、過去→現在(因果)もなく、現在→過去でもあるし、過去=現在でも過去/現在でもありうる。だからこそ、今ここ(南の島、世界中どこでいつであろうとも)で、水を飲む時、「ドイツにいる」。それは記憶や過去かもしれないがしかし、過去としての強固な構造がなく流動的に、今現在に流れだし融けこむ。だからこの時点で、ここに主従の、どちらかがどちらかに属したりする関係はない。
「きわめて霊的な、存在の本質にかかわってリアルな、とらえがたいなにかが吹き寄せてくるような感じ」という、迫ってくる(圧倒的…というか…)リアルさを持つ世界のとらえ方によって書かれた小説。