『よんでますよ、アザゼルさん。』2巻を買って読んだ。連載をちらちら読んでるとまとまってないように思える話が、短くきちっとまとまってる(多分3話で1つ)。キャラもめちゃくちゃ立ってるし、良い人間一人もいないのもすげぇ。一歩間違ったらバトルものになりそうなのもすごい。最後の方で、いよいよアクタベの過去に接近していきそうだけど…それはそれとして『ニート島耕作』最高。
好きなセリフ
《「こんな/薄暗い部屋で/一人でブツブツ/何やってんだ/危ねー女だぜ」「好きだ!!」》
《「カネ最強/ダンシャなめんなよ(…)」》

岡崎乾二郎展を南天子画廊で見た。前に国立近代美術館でも見たことがあるのと同じような(と言っても違う作品だけど。完成度?というか、難易度?が違うような気もするが…すげーなんとなく)、2枚1組の絵が見れた。前もそうだったけど、これを見ると、単純な、まず同じ形を見つけたときが面白くて(前に見た時が、最初だったので、そのときは「気づいた」だったのでもっと大きく感動したけど…安直なアハ体験みたいな)、どうやって描いたのか(1回1つの作品を描いてから、それを要素ごとにとりだして2つにしたのか?とか…)、具体的には、どっちから先に描いたのか、その描き方を想像したり筆の動き(筆で描いてるか知らないけど…)を考えたりする。
色の持つ形、があって、それが、一方ではキャンバスの空白がその形を待ったりしている(また、別の色になっているとか)。それも、全体がまんま同じ形なだけでなく、一部であったりもする。思い出したのは、例えば、木の彫刻を作る時に、よく、木に元々ある(内在している?)形を彫りだす、という言い方だ。…言ってるうちになにが関係してるのか分からなくなった…
色に、厚ぼったい部分もあれば、かすれている部分も、絵の具が飛んだらしき部分(これも作為的なんだろうか?)もある。前者の方が、物理的には、鑑賞者からキャンパスへの距離は長く、薄まっていくほど、視線はキャンパスに達しやすくなる。厚ぼったければ、その厚ぼったい色の部分にいつまでもとどまる。だけど、…実際は逆のような気がする。厚ぼったさの方が近い。この近さは、わかりやすさ、なのかもしれないが完全に一致はしない。かすれていると、そこには、色と空白の交じり合いが起こるわけで、絵の具の飛び散りに関しては、もし作為がないとすれば、意思すらもより薄まっていることになる。これはなんというか、深い。かすれている方が、奥行きがある、というのか。視線も考えも、終着点に達しにくい(いや、強く在る色も、終着点に達しているかと言えばそうじゃないかもしれないが…)。すくなくとも、これらの、多様な、色のあり方がキャンバスに収まっているので、見ていると、視線の留まり方が、平面作品にも関わらず(別に絵の具が盛り上がってるから立体作品だ、ってわけじゃなくて)、安定しない、というか、ごつごつし続けている(絵の具の質感もまるで一定じゃない。アクリルらしいけど)。
驚きを提供しつつ、色合いは美しくて(同系色の扱い?というか…そういうのもきれいだ。欲しい)、なおかつ不安定なのはすごいと思う。

ギャラリー山口で「一ノ瀬裕展 INNER 浸蝕スルモノ/浸蝕サレルモノ」を見た。どうやら水彩絵の具で描かれているらしいのだけど。その絵の具の広がり方が、これどうやって広がっていったのだろ、と思わす広がり方をしていた。キャンバスを傾けて…とか考えたけど、色のせたら定着しちゃうし、そんなにじむように大きく広がらないから、やっぱり筆なのか。にじみ方が、人の手を加えたものに見えなかった。…って手加えたにきまってんだけどさ。あえてゆうなら、カビとか最近の広がり方、お互いへの影響の与え方に似ているというか。

鈴木慶則展 Water-Drawing 残水図」をギャラリー手で見た。すげーかっこいい。抑制された色の使い方。最初は、それぞれの色がにじみあっているように見えたのだけど、見ているうちに、そうではなくて、グレーを主とする色の固まりと、濃い青/紺を主とする色の固まりが、ある程度はっきり分かれていった。くっきり2つの領域があるというか。その瞬間、覆いかぶさりあっている色の、鎧や甲冑のあのパーツ同士の接合部分のように見えてくる。うろことかにも。龍…

高柳昌行『汎音楽論集』をまとめなければいけないんだけど。北里義之『サウンド・アナトミア』を読んでいる。おもしろい…というか、自分は、音楽論的なとことかよりも、エピソードや断片的な発言が面白いと感じてしまう。