NTTインターコミュニケーション・センターの「拡張された感覚|日韓メディア・アートの現在」を先日見たので、それについて書いてみようとするが、難しい。「拡張」という言葉から考えまとめることは可能な気もするが。
そこにいることができるもの、一体となるもの、作品の一部(にして全体)になることができるもの、と、そうでないもの、がある。これらは、どちらが良いとか悪いとかはない。ただ、見るだけのものであるにせよ加わることが出来るものであるにせよ、ある種の、複雑さ、というか、思考や感覚に混乱を与えられるような、直線状でなく多層的・重層的な表現形式がなければ、?、ということになってしまいがちじゃないか。
渡辺水季《In-between Gaze》はどうか。ぼやけはっきりとした像を結ばないスクリーンが、プロジェクターの光を虫眼鏡でさえぎるとはっきりとし、そこには、虫眼鏡を持った自分が映る。そこには、同じように虫眼鏡を持つ女性もいて、鑑賞者は、見る自分であり、(自分に/女性に)見られる自分である…この構造があわせ鏡のように延々と続く。確かに多層的だ。他にも、延々と流れるニセのニュース映像が実は裏にあるものの「生放送」だったり(ジン・キジョン《YTN》《ディスカバリー》)、カメラとの距離によって画面に映し出される自分の姿が絵画的になったり(キム・ドンホ、イム・スンユル、カン・キュンキュ《鏡の中の肖像》)する作品があり、これらはどれも、一目見るだけでなく、そこに何らかの自分の動き(新たな視点を得ようとする動きとでも言おうか)を加えることの出来る作品である。ジン・キジョンの作品にはすごいテンション上がった。
毛利悠子《対話変速機》は、音声合成ソフトと音声認識ソフトを使って、十分異なる「流れ」を持つ作品である。が、意味から無意味さへ向かおうとしている…という意味性が強い。文章が、政治関連であることや、もともと便利なものとして開発されたソフトを用いているところとかも、批評チックですらある。
みんなおもしろい。しかし、なんというか、意味っぽいのだ。使われている技術の強さが、無意味さよりむしろ意味へ志向している、と言ったらいいのか。それは、解釈がどんどん奥へ進んでいく感じ、ではない。勿論進むけど、ちょっと手前で停まる。
つまり、感覚や思考が混乱する、一元的な意味を得ることができない、という意味、ができてしまう。でもそれは、受け手側の問題のような気もするが。まぁでも、「受け手側」=非制作者という立場が出来てしまうことは確かだ。
…長くなってきた。もうやめたいが、続ける。
梅田哲也《門州》の、つるされている物の1つをを見たときに、ポケットから出てきたものや部屋の中のいらないものを一まとめにした、という印象を受けた。というか、これらのもの、は、すべてで一つの作品なんだろうか。にしては、一つ一つがあまりに、距離的な意味でなく、離れている。それらは、廃材等を材料として作られていると言う意味では、ひとつのカテゴリーにおさめることもできるが、それはただの分類方法としてにすぎないというか…。見ていて、それぞれが動いたり光を放ったりするが、それの方向性もあるようでない、ようで…。そもそもこれメディアアートか?
見ていて飽きない。思考の回廊がずっと続いている。無意味・意味・無意味…が延々と繰り返される。
しかし、例えばその過剰なポップさと拡散性が、無意味さに近づいているパラモデルプラレール赤瀬川原平『反芸術アンパン』の中にある中西夏之の洗濯ばさみの作品を想像する)を見ていても思うんだけど、この無意味さが、先端技術(ほぼイコールの、「お金」ということなんだろうけど)を用いても表現できるんだろうか。貧しさ(高橋悠冶の、でありベケットの(「なけなし」)、でありサティの、であるんだけど)ゆえの無意味さ、複雑さ、というものだとして、豊かになってもできるんだろうか。豊かさは、明解さへ、意味へ、近づかざるをえないものである、と思うから(そんなはっきりとは決まってないけど。ことインスタレーションではそうなっているとように思える)。いやでも、豊かにならないことがすでに表現なのか。でも、豊かさを思い切りぶち壊す貧しさの作品も見てみたい。
とりあえず、「時間」とか「光」とか「音」とか「映像」とか「視線」とか、の、根源へ(意味から離れていく感じ)と思考を向かわせてくれる作品はいい作品だと思う。それぞれに、その向かうことが出来る距離=奥深さや、方向性の違いはあれど。
しかし結局すべての作品に触れるのは難しいな。
ここの常設は、どれもいちいち「楽しい」のがほとんどだ(そうでないのもある)。が、ふと、なんか…夢中にされてしまう。そして、夢中さは、その後に来るくっきりとした作品からの離脱感、を味あわせるだけだ。
常設についても書きたいけど…。

高柳昌行『汎音楽論集』読み終える。北里義之『サウンド・アナトミア 高柳昌行の探究と音響の起源』を読み始める。