フラナリー・オコナー『賢い血』を買って読み始めた。主人公のふるまいのぎこちなさや過剰さ、は、それ自体を含む周囲を異化させる?言動がいちいちおもしろい。

狸穴。なのに、狐だった。



石の配置がランダムすぎる。まるで何かの術式。たとえば、この石畳を置く、だけじゃなく、ある一定の歩き方、ルートを通ることで、発動する仕組みとか。




大竹伸朗の「貼貼貼 Shell&Occupy 3」をTAKE NINAGAWAで見た。これらを見て、良いとか美しいとか素晴らしいと言うと、その言葉は、作品があるのとは異なる層(世界か次元…というほどじゃなく)に放たれるだけだと思う。可愛い…はどうだろうか。愛玩的な可愛さでなく、形状とか色彩と直通する表現としての可愛さならば届くような気がする。かっこいいはあり。だって、格好が良い、だから。もう形にどんぴしゃだから。あとは子どもっぽさも合っているのかも。あとは、丸いとか赤いとかピンクい、とか、ヒンドゥー語(?)だ、とか。物だけの世界。物がごろんとあるだけの世界。これは、「文脈から切り離された写真やチラシや絵が物になった」という文脈から導き出される「物だけ」とは違う。
ただこれだと、つぶされた塗料がはいってない。あと上を覆う薄黄色のやつとか(ニス的な?)。これは物じゃない。なんか足んないなという感覚によって付け加えられた?…というのはうがった見方でしかない。これはこれとして(これもまた?)何かなんだ。
たとえば、川原とか、町のはずれとか、近所にある、ぼろっちい空き家や小屋に子どもだけでこっそり入ってみたら、差し込む日光の中で埃が舞う、そこにあった、一目見ただけでやばめなもの、これはだれかが作ったのか?ぎりぎりぐうぜん古雑誌とかチラシが固まってできたように見ることも可能なもの…一番大きい作品のすぐ下の床が木で貼られていて、ギャラリーの床のコンクリ、水道の小さいマンホール的なもんが、さらにそう思わせる。その上に立つと、ぎしぎしいう木の床。
段ボール、麻袋の切れ端、ビニール、飾りの偽の花、針金、そして銀のスプレーが吹き掛けてある。意味や文字を示すものはイタリアのプレートだけ。いったいどうやって作ったのか、順序とか、わかったふりをすればできるけど、具体性を持った想像はむり。

ものを買って、たとえば400円のうち、100円をポイントで払って、残りの300円を現金で渡す、と、先に商品、そして、レシートと300円が手渡される。

暗い公園のブランコの辺りで、女の子が柵に腰掛け、男の子がベンチに座り、もう1人男が地面に座って、集まって何か話している。3人とも高校生か大学生。そばを通ると、地面のめがねが、「映画を作って」だか「作るには」とか言っている。