昨日北里義之『サウンド・アナトミア』を読み終えた。で、今は、オコナー『賢い血』を読んでいる。おもしろくて、映画のようで(出来事と人物の動作の処理)、エピソードも笑える。

世田谷美術館で「アウトサイダー・アートの作家」「大地の歌を描く人々〜ベルギー・クレアムの画家たち」を見た。特長として、細かく同じ形の繰り返しがあったり、おそらく絵の説明などの文字が多く描かれていたり(ヨハン・フィッシャー『猟師』のように、絵より文字が多いものもある)、キリスト教のモチーフが多く登場したり(しかしこれは、宗教画的なあつかいとは違うような気がした。もっと、固有の表現というか、誰かに信仰心を涌かせようとするものではないというか)、などがあった。とまぁ、この、表現欲と細部と全体のバランスが取れていない感じというのは、よく言われる特徴だと思った(つーか、アウトサイダーって…)。
気になった作品。
アドルフ・ヴェルフリの『ツイラー=タールの聖三位一体』。鉛筆でとにかく細かく描かれている。何が、と説明が出来ない。天使か聖人が組み込まれた巨大な装置のような…そこに楽譜がデザインされながら加えられている…巨大な宇宙パイプオルガンみたいな…。というか、この画家のプロフィールに「スイス、ボーヴィル生まれ。1895年ベルンの精神病院に収容され、亡くなるまでの35年間を約3,000点のイラスト、25,000ページ以上の長大な自伝を描いて暮らした。」とあって、自伝…すごい。
作家のプロフィールで言うと、戦争に行かされた後発症した人が多かった。
フィリップ・シェプケ『67歳の婦人ヒラント』。これは…。何かを描いた絵と、そうでない絵があるとして、これはそのどちらでもない、ような。強いていえば、建物、小屋のような感じ。だけど、おそらくそうじゃないんだろうなぁ。抽象には行かないけれど、具象とも何一つ関係ない、ような絵。だからといって、ただぐちゃぐちゃ描いただけではないようなので(筆とか身体が動くがままに描いたという感じはしない)、具象として描かれているものがあるということなんだろうか。ものすごい気になった。
オスヴァルト・チルトナー『お辞儀をする人たち』。440×206とでかい。サインペンで描かれているだけなんだけど、2つの細長い人々の集団が左右にあって(2つとも左を向いていて、後方の人々はお辞儀しているけれど、前方は後ろに反り返っている)、真ん中は上下を貫く空洞になっている。
ガストン・シュサック『ロレーヌ十字架』。立体作品。十字架だが、横棒が2本ある。十字架自体に何色か色が塗られているのだけど、それらのうち、一体何が一番最初に塗られたのかわからないような感じで、色がお互いを侵蝕しあっている。色が成す全体の形が優先されるのか、それとも色が動くままなのか。裏側見たら出品票的なものがたくさん貼り付けてあってなごんだ。
カルロ・ツイネッリの作品。文字が描線となっている。AとかBとかCとか、アルファベットがまるで記号化された何かのようにいくつも書き込まれていた。あと、両面。
アニー・ゼルヴェの作品。コラージュが使われている。チラシとか。しかし、中に、というかほとんどが、明らかに元をコピーした紙をつかっているらしいのにおどろいた。いらないものとしてのチラシをそのまま使うのではなく(作品化し大事なものとするのではなく、価値転倒させるのではなく)、チラシそれ自体がすでに大事なものなんだろうか。だから「使いたくない」「使わない」。そのものを、美術作品とすることを通ずるのではなく、そのものとしてだけで、すでに良いもの(としかいいようがないのが…)とする。エスティル・アルベルティニの作品は、タイトルが、『ピンクの電話』『赤いベット』『レモンイエローとオレンジの箱、靴』『二つの鞄、香水』といったものであることからもわかるとおり、もう、ただ、ここに言われているものを描いているだけで、ものが、在る絵画になっている。マテリアル=第一の質料があるだけ。なんというか、これが大事なもんなんだろうな、と感じる(タイトルからわかることなんだけど。まずそのものの存在を伝えたい、というタイトルの付け方だから)。アニー・ゼルヴェの場合は、作られて作品によって、逆説的に、このマテリアルの存在が際立たされている。だって、それが、使われていないだから。おもしろいものを見つけた、これを使いたい、となる時、その材料が大事になって、作品はその次になっている、というか。
パトリック・アノックの作品。模様、だけど、地図のようにもビルのようにも見えた。
ルイ・ステーは、コルビシェのいとこ。