ジョン・ファヴローカウボーイ&エイリアン』見た。

「こーやって、ドビューンとUFO撃ち落とすんすよ!」とダニエル・クレイグに演技指導するファヴローさん(想像)。
しかしファヴローはつくづく、映画における、…いや何と言っていいかわからないし、言葉にできない感覚が常に付きまとうのだけれど、強いて当てはめるとするなら、(映画的な)「論理」「構造」にこだわっていると感じる。『アイアンマン2』しかり、この作品しかり。
記憶をなくした男は、出自を自ら語ることはできない(自分のできることは「English」だ、と述べるシーンは示唆的)。突如現れた女の助け、他者の語り、によって、彼は記憶を取り戻す。しかも、その女性は、人類ですらない、ある種極限の他者である。
ところで、生きている人間にとって、究極の他者とは当然、死者であるから、「空の上の、他の星からやってきた」彼女が、男のかつての恋人と重なる(そしてその恋人はあまりに衝撃的な死を迎えている、それを目撃してしまう)のは必然、ラストで、発せられる「彼女は天国にいった」という言葉が指す「彼女」は決して単数ではない。
また、その言葉を発した、ハリソン・フォード=ドルハイド大佐もまた、いや彼のほうがむしろ徹底して、追跡劇の中で、子供、部下であり「義理の息子」、ネイティヴアメリカン、といった、他者によって、自らを語ることが可能になってゆく。その過程は、いささか徹底しすぎていると思われるほどだ(まるで彼が「主人公」であるかのよう)。
そもそも、まぁ当たり前のことではあるのだけれど、原住民という存在を残酷に排除し、社会を築き上げたアメリカの移民たち(西部劇の登場人物)が、今度は、エイリアンによって攻撃・搾取される側に置かれてしまう、という、この映画の枠組み自体が、他者の来訪による変化、を描いている(共同の敵が生まれると、かつての敵同士が団結する、というのは何とも鼻白むと同時に、胸熱な展開でもあるのが、厄介なところなんだけど…それは自分の問題か)。そして、西部劇における、外部からの招かれざる来訪者は、定着することなく去らなければならない以上、だからこそ、より深く描かれるのは、変化をもたらす者ではなく、もたらされる者である。
つまり、この映画は、他者についての映画である、と言ってしまおう。

映画的構造、というような話ではなくなってしまった。じゃあその構造とは何か、といえば、ナイフの登場の仕方・劇中での展開(および少年の成長)、や、傷を負ったエイリアンの存在、なんかを、そう呼びたい。映画をより魅力的にする、そして、線上に展開していく物語の中で有機的に絡み合う「もの」や「ひと」。

キャスティングも素晴らしすぎる。サム・ロックウェルポール・ダノ(つーか 『ナイト&デイ』にも出てたね…今気付いた)、ノア・リンガー(『エアベンダー』やん!ナイス)、わかってるね。ダニエル・クレイグの、ジェイソン・ボーンばりのアクションもかっこいい。

石黒正数『外天楼』買って読んだ。ちょちょっと…。ダークサイド完全発動。やはり、米澤穂信石黒正数は、関心が近い。そして、今までの作品の中で最も(絵も含めて)、大友克洋の影響が色濃く出ていた。