深沢七郎『言わなければよかったのに日記』を読み終えた。やっぱりおもしろかった。
《昔ではあまりオカシクないことが今ではオカシイことになるのだから、昔よりも今の方がオカシイことが多くなったのである。》(p216)というのが、深沢七郎の核のような気がした。つまり、笑えたりなんか変なように感じたりするところは、深沢七郎の小説の中では、当たり前のことなんだろう。前近代的当たり前というか。
で、金井美恵子『噂の娘』を読んでる。同じ描写のくりかえし。何度も何度も見ること。でも決して神経症的(?)ではないというか。ある種、同じ部屋にずっといたら、気になってるところが、何度も視界に入ってくるだろ、という生理的な当たり前の行為、という感じ…でも完全にそうではなくて、うっすらとした不安感が漂っている、のは、それが、自分の家ではないからだろうか。『噂の娘』では、他人の空間に行くこと、によって与えられる匂いや味や人との出会い、がもたらす高揚感であったり不安感が、よく描かれている、と思う。いつまでもなじめない、でも非日常を感じ、そこはかとない喜びも与えてくれる、他人の空間。
あとは、やっぱり、会話が入ってくると断然おもしろい、というか、金井美恵子の女性の会話がおもしろい。
他人の噂、が、ロマンチックであったりグロテスクであったりすること。
あとは、食べ物。アメ、お菓子や、出来合いの惣菜、外食、の甘美さ(?子供にとって…もしかしたら大人にとっても)。風邪ひいた時の、食事の、喉を通りにくいあの感じ。
岩本ナオ町でうわさの天狗の子』3巻を買って読んだ。話をまたいだ伏線がけっこう多い。そのせいで、最初に読んだ時に意味のわからない登場人物のリアクションの描写などがあって、無意識に読み飛ばしてしまっていることもあり、通読して気付くこともあれば、もう一回読んでみて、そのリアクションの存在自体や持つ意味に気付いたりもする。
そのせい、もあるんだけど、それ以外にも、作者の意図によってだとも思うが、登場人物の感情、ことに恋愛にまつわる感情が、テンプレとして理解できなくなっている。少女まんがって、そういうテンプレな恋愛感情の宝庫になっているなかで、ちょっとわかりにくい、複雑なような恋愛感情を描くって、むずかしいと思う。頬を赤くしたり、つまりAがBを明確に「好き」であるという視線や表情や行為の描写をはっきりとはしなかったり(赤沢ちゃんの三郎坊に対するリアクション)、そして、恋愛・友情・不快感・嫉妬・好意…なんかが入り交じる瞬間を、どろどろにするのでなく、さらっと描くのがうまくて(例えば、秋姫が、瞬とタケルが一緒に勉強している姿を見る時、や、紅葉からタケルと瞬の相談による仏像(?)の制作のことや瞬の修行のことを秋姫が聞かされた時、瞬が、タケルから、二人きりになっても何もなかった、と言われて、その後秋姫に会話の中身を聞かれて「忘れた」と言うその時の大きなコマ(ここはいい)とか)、そのせいで、その人物自身もまだつかみかけてない自分の感情、というものが、リアルになっている(というか、タケルや瞬は、タイプは違えど二人とも感情をはっきり表に出しにくい性格に設定されているのも、よいなと思う)…し、読者もそれについて考えられるのがおもしろい。あと可愛い女の子の描き方が、今っぽくないような気もする。あと喧嘩とか言い合いのできない、そして助け合いというか親切のしあいがどうもかみあわないタケルと秋姫はうまくいかない…ってことにテンプレだとなるんだけど、どうだかわからない、のがこのまんがだと思う。