ジョイス『若い芸術家の肖像』を読んでいる。
《すぐ前の机に「胎児」という言葉が刻んであるのが目についた。黒ずみ汚れた板の表面に何度もかけて彫りあげたようだ。ふと目にとまったこの文字が彼の血をざわつかせた。そのころの学生たちが今ここにあらわれて自分をとりまいているような気がして、思わずたじろぎ後ずさりして彼らからのがれたくなった。父親の話だけではうまく思いえがけなかった彼らの生活のありようが、机に刻まれたこの言葉からはっきりとしたイメージとなって目のまえにうかびあがってくる。(…)しかし中庭を横ぎって校門へ引きかえすあいだも、刻まれたあの言葉と幻影は彼の目のまえで揺らめき踊っていた。これまでは自分の心のなかだけの獣欲的で個人的な病癖とばかり思いこんでいたのに、その痕跡が外部の世界にもあると知って、ショックをうけたのだ。奇怪な妄想のかずかずが、ひしめきあって記憶にうかびあがってくる。そうした妄想もやはり、たんなる言葉をきっかけとして、とつぜん荒々しく彼の目のまえにとびだしてきたのだった。》(p167-168)言葉のイメージがもたらすもの。
《頭脳そのものが病みほおけ、力を失っている。商店の看板文字さえ読みとれない。奇妙な生きかたのせいで、現実の枠の外にはみだしてしまったのか、そんな気がするのだ。》(p172)
《星の生涯がえがく広大なサイクルは彼の疲れた心を、外へはそのぎりぎりの限界まで運び去り、内へはその中心に引きよせる。外へ、そして、内へ、行きつ戻りつする心の動きにつれて、はるかに遠い音楽が聞こえてくる。》(p194)当たり前だけど、こういうことが書けるのはすごいなぁ。