昨日の夜のCBSドキュメントジーン・ザパタ失踪事件について。夫が殺してて、娘が真相究明のため警察に協力したこととか、夫つまり父親は、司法取引をして自白したこととか、ストーカーのはしりみたいな感じだったこととか、裁判が終わったあとで急に自白しだしたのとか、その映像を1人の娘だけがビデオで見たとか。70年代の事件ということとか、警察の再捜査が色々ルール的にぎりぎり(勝手に文書を読んだりとか)だったこととか、警察官や弁護士、検事が協力し捜査してくとことかを見てて、『ゾディアック』を思い出してた。この事件も、映画になるなぁ。ユージーン・ザパタはロビン・ウィリアムズとか。来週は、『チェンジリング』の元になった事件ぽい。
あとウィキペディアでシャマランのとこを見たら、インディ・ジョーンズクリスタルスカルの、初期段階で脚本に参加してたということがあって驚いた。今さらわくわくして、…つーか残念。

鈴木道彦『越境の時 一九六〇年代と在日』を読み終えた。
《「悪は常に善でないもの、つまり善であるべきが不足した状態に過ぎない」/そう少年は書いており、またこの悪を「欠陥」とか「欠如」といった言葉で補っている。要するに、悪の本性とは裏側のものであり、日蔭のものであって、欠如として善を侵蝕するにすぎないのである。そうだとすれば、それは充実を望み得ないものだし、自足すれば逆に自由を喪失することになるだろう。言いかえれば、悪は善に罰せられるものでしかあり得ないし、罰せられて初めて輝くものだ》(p93)
外部によって、他者としての自己しか持ち得ない(「悪者」としての自分、またその逆の善なる者としての自分、両方とも自己ではない)、という状況において、自己獲得のため、与えられたもの、ではなく、自ら選択したものであるところの「悪」を獲得することで、自己となる。悪のヒーローとして、悪を演じ体現することで。ジャン・ジュネとの関係。…あとバタイユも?ボードレールのつながりから。
《ファノンが『地に呪われたる者』のなかで詳述したように、暴力的社会は、その暴力を身に蒙る被害者のなかに、確実に自らの暴力を植えつける。それが炸裂すると社会はうろたえ、これを怪物視して「暴力」という名を与えるが、もともと怪物はその社会の方なのだ。》(p107)
想像の再現としての犯罪。
金嬉老事件について知りたくて読んだ。警察やマスコミや司法のどうしようもなさ。
そして特異な集団の在り方。「集団の文章」とは存在しうるのか?について(p216)

トニー・スコット『ドミノ』をDVDで見た。
わかりにくい話を、さらにがちゃがちゃわかりにくい撮り方、をしてる、という感じがまずした。異なる映像の質感や色、スピードをつなぎあわせ(重ねあわせ)ている。でもそれは、他者の視線というよりある主観の様々な事ごとに違うとらえ方をあらわしてるという感じ(例えば、幻覚剤を摂取してしまった後は、狂った映像になる、とか)。その主観はまず、頭から語り手となっているドミノのものなんだろうと思う。リアリティTVに密着された映像が途中で入ってきて(クリストファー・ウォーケンがいい)、これが非主観な映像となるかと思ったけど、あまり長くなく、虚像としてのドミノとかが確立する前に、早々になくなってしまう。複雑なようで、結構一元的というか。繰り返し、(音楽的な使われ方で)「私はドミノ・ハーヴェイ。職業は賞金稼ぎ」(あと、`bad girl'だっけ?それもエンディングで使われてた)というセリフが使われるのも、つながっているような気がする。確かに、トークショーとか、アフガニスタンの映像(子どもの頃のアルフが、爆発で思いっきり吹っ飛ぶ(てか飛
ぶ)とこ最高)とかあるんだけど…あとドミノのお父さんのドラマとか…それも、どうも、回収されてしまってる気がするのは、根本的に一人称だからだろうか?
しかし、かっこいい映像は多い。取材車が爆発すんのもいいし、ホテルタワーの最上階の銃撃戦をヘリから見ると、ものすごいチカチカしてるのとか…あと、ミッキー・ロークかっこいい、けど…。キーラ・ナイトレイよかったです。
外人は、ラップダンスが好き、なのか?
なんか、金魚の映し方とか、コインの感じ(背景が合成で…っていう)を見てると、『下妻物語』とか『嫌われ松子の一生』とかの監督を思い出した、なぜか。なんか、色を濃くしたりすると似てくる。『ドミノ』ほど、見にくさを強調してないし、黒が物凄く真っ黒になってもいない(影が異常に濃くなることがある)けど。