ありふれた奇跡』やばいなぁ。「子どもいなくて…」「えっ!?」、「男の匂いがする」、「触るな!」とか。戸田恵子のセリフがすごい。

M・ナイト・シャマランアンブレイカブル』をDVDで見た。
冒頭の、鏡を使ったイライジャの誕生のシーン、列車の中の、カメラが椅子越しにあり左右に振れることで人物を映すシーン、病院での、奥にデイヴィッドがいて手前に人が寝ていてその人から血がじわじわにじみ出てくるシーン、など、やばい長まわしでつなぐことが多い映画。こういう長いワンカットでは(ワンカットだからこそ)一つの絵や、動きで、人物の説明や物語を語らなければならない。そして、観客の注意を引くための(見てもらい続けるための)工夫の一つとして、ワンカットの中で、いくつかの種類(というか、そこにある(いる)ものを映した映像だけではなくて…)の映像を使う(もちろんそれだけではなくて、例えば、列車の中のシーンもそうだし、最後の方の、デイヴィッドが監禁されていた人々を救うところを、窓の外から、はためくカーテン越しに見るシーンなどの、物事の見え方自体を変えるということもある。見にくくする、というか、すんなり見せないというか…)。その一つに、映りこみ、があり。だからよく、鏡や、電源の入ってないテレビの画面に映る、というのが多用されるんだろう。そして、さらにテレビでいえば、決定的瞬間や異常なものが、直接見られるものではなくて(てかスクリーン(テレビ画面)で見てる時点で直接ではないんだけど)、テレビの映像(や、それこそ何かに映りこんでしまった状態)で、登場する。それが、決定的で異常であればあるほど(というか決定的であるにもかかわらず普通の見え方と変わらずに)あっけらかんと見えてしまう。列車事故がそうだし、デイヴィッドの、異常であることの描写のシンプルさにもあると思う。彼が、犯罪者と格闘する時、すごいことになっているのに(がんがん何度も壁に打ち付けられている)なんだか、当たり前のように映されている。

ストーリーについて。現実の世界を、物語というかある文脈(この場合はアメコミ)を用いて読み解く(解釈する)、もしくは、無理矢理(電波的に)アメコミの世界に現実を引き寄せてしまう。コミックという虚構を現実の歴史を語っているもの(もしくは意識されずに語ってしまっているもの)としてとらえる。偽史は、正当な歴史でもある、ということか?大きな物語を無理矢理作り出す?イライジャは、芸術としてアメコミの原画を扱っているわけだけど、彼の原画についての解釈を聞いていると、アートとして分析しているというより、アメコミのデザインの表す意味を過剰に読みとることが二つの異なる世界を近づけることにもなる、ということが目的だと思えてくる。
で、イライジャは自らの境遇のみならず、デイヴィッドの(怪我や病気とは無縁の)人生、彼の選択(「フットボールの競技場の警備員」を選んだこととか…これも、「フットボールの競技場の」の方に注目すれば(というか普通、デイヴィッドが元フットボールの選手だったことを知っていれば当然なんだけど)、「フットボールはやめたけど、まだ未練があり、少しでも近くにいたいという気持の現れ」と解釈うることができるんだけど…イライジャは「警備員」(=何かを守り監視する人)の方に注目した)も、解釈しなおしてしまう。デイヴィッド=ヒーローという解釈に。こうして、すべては、アメコミの世界の出来事としてとらえられていく。そうすると、デイヴィッドとイライジャは、「一本の曲線の両端」同士であると考えなければならないし(逆の性質を持つ者同士なのだから)、唯一デイヴィッドが死にかけた原因である水は「弱点」でなければいけない(そして、イライジャがさりげなく水は自分の弱点でもあることを告げている…で、この「弱点」には根拠が無い。これは、シャマランの特徴なのか(なにか物事の解決へとつながる重要なものは、かなりひらめき的に現われる)。いやそういう事じゃなくて、物語の文脈の延長線上に存在してしまうというだけで、そのものを、文脈に取り込んでいく、ということなのかもしれない。そうしてどんどん文脈は伸びていく)。そして、最後は「サプライズエンディング」で終わらなければならない。アメコミにおける、悪者の特徴を、目的のために図らずも(後半は自覚的だろうけど)網羅することになってしまった者が、現実世界でもヴィランになるしかない。
作中で何度か触れられる「選択」「選択肢」という言葉。選ぶことができたのに選ばなかった、ということ。デイヴィッドが、交通事故が起こった時に行った選択によって、今のデイヴィッドがあるんだけど、それは、まるで、ヒーローとして存在することがその時点でわかっていたような、そしてそれを回避したいというような選択であるように思える。もちろん、その選択は、その時点で、アメフトから離れるためのものだったんだけど、現在になると、それが、ヒーローとしてのデイヴィッドを否定することになってしまっている。ある選択が、自分の現在を決定してしまっている、ということ、の「悲しさ」を、デイヴィッドは感じていたのかも。そして、ニューヨークに行くという選択も、ヒーロー化を加速させる選択であったわけだ。
でも、結局そうして、迂回することになってしまった選択は、別に、物語の中にあるわけでもないような気もするのはなんでだろ。シャマラン的には、この時点では、ということなんだけど。
まぁ、最後の、(かなりおもしろい)子供に「お前は正しかった」と告げるのは感動的だった。
あと、虚構を一つのテーマにする時、物語を語ることと映画が重なり合ってしまう。

・サミュのノーの連呼。やっぱ毎回面白セリフあるな。
・ベンチプレス?のくだり。ペンキの缶を足すのがおもしろい。しかもここ長い。なんというかわざとらしい…。ヒーローのすごさを示すわざとらしさ。
・暴力が嫌いな妻というのもなんというか神話的のようだ。
・虐待おばさんや万引き女は赤い服、銃の人は迷彩、麻薬密売人シャマは青、差別主義者は黄色、性犯罪者は緑、そしてオレンジのつなぎ。白黒っぽい画面の中の色、がヴィジュアル的にやばかった。『シンシティ』みたいだ。
・ポンチョかっこよかった『TAKESHIS'』の強盗のシーンを思い出した。

うすた京介ピューと吹く!ジャガー』16巻を買って読んだ。ポギーのエピソードおもしろい。というか、真顔に弱い。